久元 喜造ブログ

2014年8月31日
から 久元喜造

『峠の我が家』-私の好きな曲⑦

草原にはバッファローや鹿が遊び、空は雲一つ無く晴れ渡り、夜空には星がまたたく-そんな、ふるさとを歌い上げた讃歌です。
初めてこの歌を聴いたのは、中学のころだったのかもしれません。

この歌には、次の歌詞が、2回、あるいは3回出てきます。

Where seldom is heard a discouraging word
人を落胆させるような言葉を聞くことは、ほとんどない。

ふるさとでは、「人を落胆させるような言葉」は聞かれなかった。 友だちや顔見知りの人々は、善良でおおらか。いつも笑顔で優しく話しかけてくれたのでしょう。
同時に、そのような郷愁は、おそらくは、ふるさとから遠く離れた大都会での日々が、その逆の姿であったことを想像させます。
大都会で、落胆させられる言葉をかけられる日々の中で、美しく、優しかったふるさとへの郷愁は、いっそう強くなっていったのかも知れません。

私も、40年間、神戸を離れていた間、よく、ふるさとを想い起こしたものでした。

ただ、私が生まれ育った昭和30年代の新開地は、緑あふれる草原でもなければ、鹿が遊ぶのどかな田園でもありませんでした。
家の中ではいさかいが絶えず、家の外でも、何でこんなことを言うの、とがっかりするような言葉がひんぱんに聞かれました。
活気にあふれていましたが、まだ貧しく、あちこちで罵声、怒声、奇声、嬌声が飛び交う、混沌とした世界でした。
通りでは愚連隊が肩を怒らせて闊歩し、公園では傷痍軍人がハーモニカを吹いて喜捨を乞い、ルンペンの親子が竹篭を背負って怒鳴られながら廃品を拾い集めていました。
それでいて、人情あふれる世界でもありました。天使のようだった女性の顔も思い浮かびます。

私は、どこかの街の酒場のカウンターでひとり冷や酒を煽り、『峠の我が家』を口ずさみながら、” a discouraging word”  もあふれていた私のふるさとを、心の中で抱きしめたのでした。

 


2014年8月28日
から 久元喜造

神戸でラグビー・ワールドカップを。

2020年のオリンピック・パラリンピックの前の年、2019年には、我が国でラグビー・ワールドカップが開催されます。
この大会は、オリンピック、サッカー・ワールドカップに次ぐ、世界3大スポーツイベントと言われており、全国10~12会場で開催が予定されています。
神戸は、「ラグビーワールドカップ2019」の開催都市に立候補を表明しています。

神戸には、全国社会人ラグビー大会で7連覇を果たした神戸製鋼コベルコスティーラーズがあり、トップリーグの試合もノエビアスタジアムで行われています。
先日は、平尾誠二GMや橋本大輝キャプテンが市役所に来られ、2003年以来の覇権奪回に向けて力強い決意表明をいただきました。
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来年3月には、「ラグビー・ワールドカップ2019」の開催都市が決定されます。
8月8日には、日本ラグビー協会の森喜朗会長や、「ラグビー・ワールドカップ2019組織委員会」の嶋津昭事務総長を訪ね、神戸開催に向けた要請活動を行いました。
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現在、市役所には誘致に向けた横断幕を掲げています。
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今後、三宮の商店街や地下街などにも協力いただき、誘致活動を行っていきます。


2014年8月26日
から 久元喜造

六甲山を再生に導いた坪野市長と本多博士

広報紙KOBEの6月号で、
「江戸時代、はげ山だった六甲山を緑豊かな姿に再生させたのは、明治期の先人による努力の賜物です」
と記したところ、読まれた方が、「本多静六通信」のことを教えてくださいました。
この冊子は、久喜市役所に事務局がある「本多静六博士を顕彰する会」が発行しており、お茶の水大学名誉教授の遠山益先生の論文が掲載されていました。
遠山先生の論文によると、六甲山の荒廃の歴史は古く、源平の合戦の頃から進んでいったようです。とりわけ豊臣秀吉による大阪城築城に際しては、「六甲山の樹木伐採勝手たるべし」との布令が出され、江戸時代になると、伐採による荒廃はさらに加速していきました。

明治に入り、荒れ果てた六甲山を再生させ、植林事業に取り組むため、初代神戸市長、鳴瀧幸恭(在任:1889-1901年)は、1901年、植林調査と計画をつくる予算を計上しました。これを受け継ぎ、本格的に植林事業に取り組んだのが、第2代神戸市長、坪野平太郎(在任:1901-05年)です。
坪野が頼ったのは、林業の専門家で、日比谷公園、明治神宮などの造営にかかわり、日本の公園の父とも呼ばれる本多静六博士でした。遠山先生の論文によれば、坪野と本多は、1890年、欧州に向かうフランス船の中で知り合ったようです。

1902年、坪野市長は、六甲山系の治水の調査、砂防造林の設計を本多博士に委嘱します。
本多の指導による植林の特徴は、常緑樹と落葉樹、針葉樹と広葉樹の配合でした。また、四季折々の色彩などにも考慮が払われました。
本多による造林計画に基づき、1915年までに約600ヘクタール、合計334万本もの造林が行われました。
その後も、坪野と本多の意志を受け継いだだ先人たちは、植林事業を続け、六甲山は、緑あふれる姿に生まれ変わっていったのでした。(文中敬称略)

 


2014年8月24日
から 久元喜造

不発弾処理への対応

きょうは、早朝から夕方まで、兵庫区中之島2丁目で発見された不発弾処理に追われました。
子どもの頃、母からよく神戸空襲の話を聞かされたものですが、今なお戦争の痕跡が残っていることを再認識します。
7月29日に発見された爆弾は、500LB・250kg爆弾の一部ですが、先端に弾頭信管が装着されていて、そのまま外部に運び出すと、輸送の振動や衝撃により爆発するおそれがあるため、現地処理が必要と判断されました。
自衛隊、警察との緊密な連携のもとに警戒区域の範囲が決定され、災害援護者の状況の確認、対象のみなさんへの周知徹底をはじめ入念な準備が行われてきました。

7時過ぎに、須佐野中学校体育館に設けられた現地対策本部に到着。
7時50分、災害対策基本法に基づき警戒区域の設定を宣言、8時から全住民の避難誘導を開始しました。警戒区域内のすべての携帯電話に、緊急メールが発せられました。
8時半からは、交通規制が開始されました。

9時、本部長の私から、陸上自衛隊中部方面後方支援隊に対し、不発弾処理を依頼し、作業が開始されました。
もともとの想定では、手動により信管を除去することができれば作業は完了する予定でしたが、実際には爆弾の状況からこれは無理と判断され、信管の周囲を切断する方法が選択されました。
作業は、自衛隊の皆さんの手によって行われましたが、命の危険と隣り合わせの作業で、言いようのない緊張感がひしひしと伝わってきます。

無事、信管が除去されたとの報告を受けて現場に赴き、信管を確認した上で、15時26分、安全化宣言を行いました。
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中村副隊長さんをはじめ自衛隊のみなさまに深く謝意を表しました。

自衛隊、警察、消防、兵庫区医師会、須佐野中学校をはじめ関係のみなさまに心より感謝申し上げます。職員のみなさんも機敏かつ周到に対応してくれました。
着替える時間もなかったので、防災服のまま、「神戸の未来のまちづくり300人会議」に急行しました。


2014年8月21日
から 久元喜造

他人事ではない広島の土砂災害

広島市安佐北区などで起きた大規模な土砂災害には、本当に胸が塞がります。
今なお、行方不明者の捜索が懸命に続けられています。
松井一実広島市長をはじめ、広島市のみなさまに、心よりお見舞いを申し上げます。
消防署の消防司令補の方は、子どもを救出しようとして自らも土砂に巻き込まれ、殉職されました。救おうとした子どもを抱いた姿で発見された、と報じられています。

今回の災害で改めて明らかになったのは、雨の降り方が異常になっていることです。報道によれば、被災地では、20日未明の午前4時半までの3時間に、観測史上最大となる217ミリを記録しました。この雨量は、平年の8月1か月分の雨量143ミリを大幅に上回っています。

今回の局地的豪雨は、気象条件と地形が影響し合って発生したと考えられますが、神戸を含めほかの地域でも発生する可能性があります。
また、広島市でこのような大規模な土砂災害が発生した要因として、花崗岩が風化してもろくなった地盤が広がっていること、山すそまで住宅が建てられていることなどが挙げられていますが、このふたつの要因は、神戸市の多くの地域にも当てはまります。

このように、広島の土砂災害は、決して、他人事ではありません。
8月9日のブログ でも書きましたように、神戸でもこれまで、昭和42年の大水害をはじめ、くりかえし土砂災害が起きています。
神戸市では、各区ごとに、 洪水ハザードマップ を作成し、また、 土砂災害危険個所 を地図に表示していますので、ぜひ、神戸市のホームページなどで確認していただきたいと思います。
さらに、土砂災害が発生するおそれのある各地域を改めて点検するともに、これまでとってきた対策で十分かどうか、必要な見直しも進めていきたいと考えます。


2014年8月19日
から 久元喜造

単刀直入に訊くのはまずいですか?

私は、1995年7月に札幌市役所から東京に戻ってから、2012年7月まで、霞ヶ関で仕事をしました。「官僚主導」が批判され、「政治主導」が強まっていった時代でした。
役所では、大臣の意向が一層重要になります。大臣が何を考えておられるのか、どう感じておられるのかが、幹部職員の関心事になるのは当然の成り行きでした。
別の部局が説明に入ったときの大臣の反応、秘書官に発した言葉、果ては、酒席での戯れ言までが話題になり、
「大臣の考えはこうだ」「いや、大臣の真意は別のところにある」
といった、大臣の意図を探る会話があちこちでよく延々と交わされていました。

私は、そのような会話にはほとんど加わりませんでした。時間が無駄だったからです。そんなヒマがあったら、大臣に直接聞けばいいのに、と思っていました。

ただ、上司によっては、単刀直入に訊くのをいやがる人もいました。
ある 政府の重要会議で、私の担当分野について、大臣がかなり非現実的な発言をされたことがあり、上司に、「直接、私が大臣のお考えを確かめます」とお伺いを立てると、
「われわれが大臣の方針に反対しているかのように受け止められるのは、まずい」
と、さえぎるのです。
余りの馬鹿馬鹿しさにあきれ果て、独断で大臣室に入り、端的に発言の意図を尋ねますと、案の定、最初はご機嫌が悪かったのですが、やりとりをしているうちに納得していただき、あとは、その会議での大臣発言をいかに自然に軌道修正していくかを、私が考えることになりました。

もちろん、大臣の日程は超過密で、いつでも飛び込めるわけではありません。
急ぐときは、国会答弁レクなど大勢が集う別のレクの中で、答弁の説明に潜り込ませて、さりげなく意図を訊き出すしかありませんでした。
周りに余計なことを知られることなく、ポイントを大臣にだけ、ほんの一瞬のうちにどう理解してもらうのか、そして、イエスの答えを瞬間的にどう引き出すのか、前の晩からレクの直前まで頭をひねりました。


2014年8月17日
から 久元喜造

『松方幸次郎とその時代』

職員のみなさんが台風11号の災害復旧に従事されている中、心苦しかったのですが、諸般の事情もあり、8月13日から15日までお盆休みをいただきました。
休みの間は、市役所から入る情報に注意しながら、 『火輪の海-松方幸次郎とその時代-』 (神戸新聞社編)を読了しました。
前編287頁、後編321頁、600頁を超える大著です。
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松方コレクションで知られる 松方 幸次郎 (1865-1950)の生涯を描いた評伝です。
松方幸次郎は、明治の元勲、松方正義の三男として生まれ、川崎造船所(現川崎重工)社長、神戸新聞社初代社長、衆議院議員、そして、美術品収集家など多彩な顔を持った実業家です。
美術品の収集を中心に描かれていますが、神戸が日本を代表する大工業都市、国際港湾都市として発展していく過程が、松方の生き様を通じて、鮮やかに描かれていました。

川崎造船所の創始者・川崎正蔵、鐘淵紡績の武藤山治、鈴木商店の「大番頭」金子直吉、大阪経済界の重鎮・五代友厚、兵庫県知事・服部一三、神戸市長・鹿島房次郎、ロシアの陸相クロパトキン、社会運動家・賀川豊彦、近代中国建国の父・孫文、そして、印象派を代表する画家クロード・モネ、洋画の巨匠・黒田清輝など多彩な人物が登場します。

松方が夢見た「共楽美術館」は、結局は実現を見ることはありませんでしたが、1953年、吉田茂内閣は、コレクションを受け入れる美術館建設を閣議決定します。
神戸市助役に就任したばかりの宮崎辰雄は、さっそく神戸での建設を外務省に要望しますが、東京の上野に 国立西洋美術館 が開館し、松方コレクションの一部が所蔵されることになりました。
常に時代の先を読み、さまざまな局面で不可能を可能にしていった松方幸次郎の業績は、膨大な松方コレクションを通じて、長く後世に語り継がれていくことでしょう。(文中敬称略)


2014年8月13日
から 久元喜造

ゴミをあさるイノシシのグロテスク

市内の某所で、ゴミをあさるイノシシを写した写真です。
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見たくないものを見てしまった、というのが、第一印象でした。
イノシシは、古来、野山を駆け巡り、自然の恵みを糧にして長い年月を生き抜いてきました。そのイノシシが人間のごみをあさるようになるとは・・・・

彼らをこんな風にしてしまったのは、人間です。
おそらくは、単にかわいらしいから、という単純な動機から餌を与えるようになったのがきっかけです。餌にありつく味を覚えたイノシシは、次は、ゴミステーションに出没し、ゴミをあさるようになりました。
一部の人たちの心ない行為が、市民の安全を脅かし、野生動物の行動も狂わせているのです。

今月の7日にも、東灘区で負傷者が出ています。イノシシによる被害を早く食い止めなければなりません。
神戸市では、条例の改正を行うこととし、規制区域内で勧告に従わない悪質なケースにおいては、「勧告に従うよう命ずる」ことや「命令に従わなかったときはその内容を公表する」措置を追加するなど、対策を強化することにしています。
現在、市民のみなさんから意見を募集しており、寄せられたご意見を踏まえ、9月の市会に条例の改正案を提案する予定です。
市役所内には後ろ向きの動きもありましたが、農政部のみなさんが頑張ってくれて、何とか条例改正案をまとめることができました。
いくらお願いしたり、注意しても聞き入れてくれない一部の方々がいる以上、毅然とした対応をする必要があります。

 


2014年8月11日
から 久元喜造

「神戸サミット」開催への課題

先週の金曜日の8月8日、東京から帰庁したその足で、2016年サミットの神戸への誘致を発表しました。
井戸敏三兵庫県知事が神戸市役所まで出向いて下さり、共同で記者会見を行いました。

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主要国首脳会議(サミット)は、今年はベルギーのブリュッセルで開催され、来年2015年はドイツ南部の保養地エルマウで開催されます。
2016年は、日本で開催されることが決まっていますが、国内の開催地はこれから政府が決定します。
神戸市は、兵庫県と共同で、「神戸サミット」の開催を外務省に提案することにしました。

神戸は、古くから外に向かって開かれた都市です。そして、来年は、阪神・淡路大震災から20年になり、世界に向かって、甦った神戸の姿、そして培われてきた防災・減災文化を、感謝をこめて発信できる好機になります。
海上文化都市・ポートアイランドを中心とした開催は、ほかの都市にはない特色となることでしょう。

すでに開催誘致に動いている都市もありますから、表明した以上、経済界など幅広い分野のみなさんの賛同を得て、推進体制を整え、誘致運動を強力に進める必要があります。
何よりも、市民のみなさんの理解をいただくことが不可欠です。

同時に、サミット誘致への取り組みは、単に誘致運動にとどまらず、神戸の魅力的な街づくりを進める契機にしていかなければなりません。
神戸は、創造都市ネットワークのデザイン都市に選定されましたが、残念ながら、これまで市民がその成果を目に見える形で実感するところまで至っていません。
『デザイン都市・神戸』創造会議でしっかりと議論していただき、サミット開催都市にふさわしい都市景観、街の佇まいを創造していく取り組みを加速させていきます。

 


2014年8月9日
から 久元喜造

昭和42年の大水害

戦前の昭和13年の大水害は、古くから神戸にお住まいのご高齢のみなさんの間では今でも時々話題になりますが、戦後の大きな災害は、昭和42年の大水害です。
熱帯低気圧となった台風が西日本に停滞する梅雨前線を刺激し、神戸にも集中豪雨をもたらしました。
六甲山系のあちこちで土砂災害が発生し、とりわけ、当時の葺合区市ヶ原の世継山斜面では、大量の土砂が崩れ落ちてふもとの集落を直撃し、21名の人命が失われました。
神戸市全体の被害は、死者84名、行方不明8名、家屋の全壊流出361世帯、半壊376世帯、床上浸水7,759世帯、床下浸水29,762世帯でした。
当時の災害の模様は、 神戸市のウェブサイト でご覧になれます。

私は山田中学の2年生でしたが、雨が激しく降り出したとき、神戸電鉄湊川駅の近くにいました。たちまち歩道は水があふれ、当時、神戸電鉄は湊川の地上駅が終点でしたが、停車していた車両ごとプラットホームが完全に浸水していた光景をまざまざと想い起こします。
しばらく神戸電鉄も有馬街道も不通になり、何日後かに、西宮の山口辺りを迂回したルートをたどるバスに乗り、鈴蘭台の自宅に帰りました。

昭和42年の大水害の後、神戸市では、国や兵庫県とともに、砂防ダムや防災林の整備、急傾斜地対策の実施、河川改修、市街地における浸水対策などを進めてきました。
しかし、災害予防だけでは被害を未然に防ぎ、あるいは最小限にすることはできません。災害が発生するおそれがあるときは、安全に、すばやく避難することが必要です。
神戸市では、各区ごとに、 洪水ハザードマップ を作成し、提供していますので、参考にしていただき、気象情報に注意して、災害への備えをしていただきたいと思います。