久元 喜造ブログ

2018年7月12日
から 久元喜造

豪雨災害における消防団の活動


今回の豪雨により、各地で大きな被害が出ています。
神戸市内では、80年前の阪神大水害を超える雨量を観測しました。
阪神大水害では、当時の神戸市区域で616名の命が失われましたが、 今回の豪雨による人的被害は、現時点で軽傷1名にとどまっています。
この背景としては、長い間、六甲山系を中心に、砂防ダムなどの整備、植林など山林の整備、急傾斜地崩壊防止対策などの対応が進み、山腹崩壊、土石流の発生が抑止されたことが挙げられます。

もう一つは、高い災害対応力です。
今回の豪雨でも数多くの救急要請が寄せられ、神戸市消防は全力で被災者の救出に当たりましたが、同時に、消防団も災害応急対策を迅速に実行するうえで大きな役割を果たしました。
7月5日から8日までの4日間に、延べ2065名の消防団員が消防団詰所などに待機し、実際の活動回数は、延べ382回、活動人員は延べ1186名に上りました。
灘区篠原台の土石流発生現場では、30名の消防団員が避難誘導や土のうの作成に当たりました。
また、被災者に女性や子どもがいたことから、3名の女性消防団員も現場での活動に従事しました。
消防団のみなさんの日頃の精進と、今回の災害現場での活躍に感謝申し上げたいと思います。

消防団の存在は、高い災害対応力を維持していくうえで大きな意義があります。
神戸市としては、引き続き消防団装備の充実を図るとともに、消防団員のみなさんが活動しやすい環境を整え、消防団がその社会的使命を全うしていくことができるよう、全力で取り組んでいきます。


2018年7月8日
から 久元喜造

今回の豪雨災害への対応について


今回の豪雨により、西日本各地で甚大な被害が出ており、お亡くなりになった方々に哀悼の意を表しますとともに、被害に遭われた方々にお見舞いを申し上げます。
神戸市内では降り続いていた雨も小康状態になり、今日の日曜日は、晴れ間も広がっています。
避難指示・勧告は順次解除しており、防災指令も午後5時に灘区を除き解除しましたが、天候が激変し、局地的な豪雨に見舞われる可能性もあります。
引き続き、気象情報に注意していただくとともに、新たな避難情報が出された場合には、速やかに避難するなど自ら身を守る行動をとっていただきますようお願いいたします。

今年は、1938年の阪神大水害から80年に当たり、私は今年に入ってから、折に触れ、当時の被害に言及してきました。
このときは、7月3日から5日までの3日間に、市街地で461.8㎜の雨量を観測し、当時の神戸市内で、616名の死者・行方不明者がありました。
今回の豪雨では、7月5日から7月7日深夜までに、当時を上回る466.0㎜(中央区三宮)を記録しましたが、人的被害は、現時点では、軽傷1名となっています。
長い間、国、兵庫県、神戸市が密接な連携の下に、砂防ダムの整備、急傾斜地崩壊対策など災害予防の取組みが営々と続けられてきた成果が現れているのではないかとも考えられます。
また、救助要請も多数寄せられましたが、懸命に救助活動に当たり、また協力していただきましたみなさまに感謝申し上げたいと思います。

人的被害は軽微であったものの、市内では多数の土砂崩れが発生し、灘区篠原台をはじめ大きな被害が出ている地域があります。
引き続き、災害復旧と被災者支援に全力で取り組みます。


2018年7月3日
から 久元喜造

市長公印に関する事務改善


市役所前で献血キャンペーンがあり、献血車の待合椅子で、20代と思しき若い職員と隣り合わせになったことがありました。(2018年5月10日のブログ
彼は出先機関の職員で、大きな布袋にたくさんの書類を入れ、片道約1時間かけて市役所に来ていました。
決裁済みの書類に市長印を押すためでした。

こんな仕事の仕方は改めたいと問題提起をしたところ、行財政局がさっそく改善案を考えてくれました。
これまでは、この職員のように、市長公印を押す必要があるときは、決裁文書を公印窓口(行財政局総務課)へ持参し、一枚ずつ文書に押印しなければなりませんでした。
大量の定型文書については、印影が印刷された文書を作成しますが、多くの場合、出先機関の職員は、決裁文書を抱え、市役所に出向く必要がありました。

行財政局の改革案は、これを改め、庁内メールで公印申請をできるようにするものです。
文書管理・電子決裁システムを使用し、市長の押印が必要な文書を添付してメールで申請すると、決裁どおりの文書であることを確認の上、市長公印が押された文書が返送されます。
すでに、6月11日(月)から実施しています。

今回は、たまたま献血車で職員から話を聞き、改善につながりましたが、事務改善は、職員のみなさん自身の自発的な発想や提案により進めてほしいと思います。
たとえば、市長の権限を出先機関の長への事務委任することなどが考えられます。
私が事細かな指示を出すと、うんざり感が広がるでしょう。
しかし、何も言わなければ改革が進まないのも困ります。
職員のみなさんからの積極的な提案と実行が必要です。


2018年7月1日
から 久元喜造

越澤明『後藤新平ー大震災と帝都復興』


後藤新平(1857 – 1929)は、関東大震災後の帝都復興を指揮した人物として、「大風呂敷」との不当な評価とともに後世に名を残しています。
スケールの大きな構想を持ち、近代国家の建設に邁進した政治家という印象を持っていましたが、本書を通読し、改めてその偉業と人物像に触れることができました。

まず印象深かったのは、水沢の下級武士の家に生まれた後藤が、その才能を認められ、頭角を顕していった過程でした。
当時の胆沢県大参事、安場保和は、優秀な少年を給仕(連絡役・雑用係)として採用します。
その中に、水沢三秀才として知られた後藤、斎藤実(後の総理大臣)がいました。
そして安場の勧めで須賀川医学校に進学、愛知県令に転じた安場は、設立間もない公立医学校に後藤を医師として採用します。
1882年、板垣退助が岐阜で襲撃されたとき、後藤は名古屋から岐阜に出向いて、板垣の治療に当たりました。
この直後、後藤は内務省衛生局勤務を命じられ、35歳の若さで内務省衛生局長に就任しました。

後藤衛生局長の存在は、伊藤博文、山形有朋、桂太郎などの要人に注目されるようになり、後藤は、医療政策のみならず、社会政策、労働者保護、統計制度などさまざまな分野で建議書・建白書を提出していったのでした。
後藤はこの後、台湾総督府民政長官、南満州鉄道初代総裁、鉄道院初代総裁などを経て、1916年、寺内正毅内閣の内務大臣に就任。
東京市長を経て、関東大震災直後に山本権兵衛内閣の内務大臣に任じられ、帝都復興の陣頭指揮に立ったのでした。
後藤の生涯を通じ、明治後期から大正期における帝国政府のダイナミックな人材登用、政策展開の一端に触れることができ、いろいろ考えさせられました。


2018年6月26日
から 久元喜造

水素ステーション、セルフ式解禁へ


6月21日の日経新聞一面に、「水素補充、セルフ式解禁」「経産省  燃料電池車普及後押し」という見出しの記事が掲載されていました。
「経済産業省は燃料電池自動車(FCV)の普及に向け、燃料を供給する水素ステーションの規制を緩和する」
「ドライバーが自ら水素を補充する「セルフ式」を解禁、一定の条件を満たせば監督者1人で運営できるようにして、水素ステーションの設置を促す。将来は無人化も検討する」

ちょうど、今月初めにスコットランドのアバディーンに出張したとき、セルフ式の水素ステーションを視察したばかりだったので(上の写真)、記事を興味深く拝読しました。
このとき視察したアバディーンの施設(Aberdeen City Hydrogen Energy Storage )は、アバディーン市などが持つ公用・公共車両が対象で、 燃料電池自動車(FCV) 14台、水素バス10台などに水素の充填を行っています。
車両への充填はセルフで行われます。
欧州では、ステーションでの充填はセルフが基本のようです。

ステーション自体が無人で、遠隔オペレーションが行われ、週1回メンテナンスの際にスタッフが駐在します。
車両への充填だけではなく、水を電気分解して水素を製造して圧縮、貯蔵する複合的な施設でした。

神戸市内の商用水素ステーションはまだ1箇所で、これを増やしていく見地からも今回の経産省の方針は追い風になります。
もちろん、安全が第一です。
アバディーンの施設も参考にしながら、民間事業者のみなさんとともに、ステーションの増設を含め、水素サプライチェーンの構築に向けて取り組んでいきたいと思います。


2018年6月24日
から 久元喜造

柏原宏紀『明治の技術官僚』


サブタイトルにあるように、幕末の1863年5月に英国に向けて密航していった、長州藩の五名の藩士「長州五傑」を中心に描いた物語です。
伊藤博文井上馨 は、明治期を代表する政治家となり、その名を歴史にとどめています。
ほかの3人は政治家ではなく、「技術官僚」として生涯を全うしました。
本書では、これまであまり語られることがなかった彼ら3人の生涯に焦点が当てられます。

井上勝 は、我が国における鉄道の導入から拡大までを主導した人物として、東京駅前広場に銅像が建てられています。
遠藤謹助 は、造幣局長として近代的な造幣事業のスタート段階で大きな役割を果たしました。
引退後、東京から神戸葺合村に移り住み、老後を過ごそうとした矢先、伝染病のために逝去しました。
山尾庸三 は、鉄道、電信、造船など西洋を範として進められる諸事業を統括する工部省の創設、理系の知識を指導する工部大学校の設立などに尽力しました。

3人はいずれも、老年に至るまで官界に属し、自らの専門知識、経験を活かして政策運営に当たりました。
安閑として職にとどまるのではなく、職を賭して政策の実現に邁進する「技術官僚」の生きざまには感銘を覚えました。
同時に彼らが官僚組織の階梯を登るにつれ、また政治との関わりに労力が割かれる中で、その専門性の維持、更新との間にジレンマが生じていったことも描かれていきます。

井上勝、遠藤、山尾、そしてその後に続いた人々が、我が国の行政組織における技術官僚の地位を確立していきました。
彼らの行動は、今日における、政治家との関係を含む技術官僚のありように対し、意義ある示唆を与えているように感じました。


2018年6月22日
から 久元喜造

辞令の廃止に思う。


ずいぶん久しぶりに札幌を訪れることになったとき(2018年5月16日のブログ)、当時いただいた辞令を見たくなり、綴じたファイルから辞令を取り出しました。
すると面白いことに気づきました。
札幌に赴任し、桂信雄市長からいただいた辞令はB5、自治省に復帰して野中広務自治大臣からいただいた辞令はA4だったのです。
この間に、B5からA4への転換があったことがわかりました。

改めて、1976年4月の自治省採用辞令から、2012年9月、総務省を辞職したときまでの辞令を眺めました。
それらは、36年余りの公務員人生そのものです。
このように、自分なりに辞令に対する思いがあったものですから、今年初めに、人事当局から辞令の原則廃止の提案を受けたとき、少々驚きました。

神戸市では、4月に定例人事異動を行っていますが、全等級を対象に辞令交付式を実施し、係長級以上の職員には市長が交付してきました。
これを改め、採用、退職、不利益処分を除き、辞令そのものを今年度から廃止しようとする大胆な提案でした。
当然、辞令交付式もなくなります。

年度の変わり目は、引っ越し、入社、退職、入学などの時期で、市役所にとって繁忙期に当たります。
そんな時期に、大勢の職員が辞令交付のために席を離れ、また辞令を持参してあいさつ回りをする現状を改めたいという人事当局の提案は、合理的なものでした。
個人的な違和感を封印し、その場で了承しました。
すでに辞令の作成をやめた政令指定都市が7市あることもわかりました。
私が公務員として働いた時期は過去のものとなり、時代は確実に変わりつつあることを実感しました。


2018年6月18日
から 久元喜造

「有馬-高槻断層帯」に要注意


今朝の7時58分、大阪府北部を震源とするM6.1の地震が発生しました。
地震により亡くなられました皆様に哀悼の意を表しますとともに、被災された皆様にお見舞いを申し上げます。
神戸市では、8時00分、神戸市災害警戒本部、各区災害警戒本部を設置し、災害への対応を開始しました。
北区で軽症者1名が発生し、救急出動したほか、エレベーターへの閉じ込めが7件発生しました。

気象庁の会見によると、震源のごく近くに「有馬-高槻断層帯」があり、この活断層の一部が動いたかどうかを今後解析するとしています。
「有馬-高槻断層帯」については、以前から承知しておりました。
熊本地震が起きる少し前に、地震に関するNHKスペシャルが放映され、番組の中で、熊本など九州南部で大きな地震が発生する可能性を指摘されていたのが、京都大学地震予知研究センターの西村卓也准教授でした。

私はたまたまこの番組を録画し、保存していました。
熊本地震が起きてしばらく経って番組を見、その的確な指摘に感銘を受け、西村先生に市役所で講演を行っていただきました。(2017年6月6日)
そして、西村先生が講演の中で指摘されたのが、「有馬-高槻断層帯」の存在だったのです。
西村先生の資料には「有馬-高槻構造線の地震は、国の長期評価では想定的評価は低いが(Zランク)、現在の地殻変動や過去の地震発生履歴から決して安心とは言えない」と書かれてありました。
今回の地震を踏まえると、西村先生は、再び的確な指摘をされていたことになります。

神戸市北部は、台風や豪雨などでたびたび崖崩れなどの被害が発生していることから、北建設事務所の人員増を図っていますが、来年度はさらに拡充するなど、対策を強化していきたいと思います。

 


2018年6月16日
から 久元喜造

百耕資料館「兵庫県第三区」展


少し前にことになりますが、板宿の「百耕資料館」で開催された企画展「兵庫県第三区~明治初期兵庫県の地方行政と住民~」にお邪魔しました。
同館では、板宿の旧家、武井家に伝わる歴史資料、美術資料が公開されています。
館の名称は、明治初期、兵庫県会議員などを歴任し、近代黎明期の地方行政にかかわった武井伊右衛門の雅号に因んで名づけられました。
武井家のご当主、武井宏之館長、森田竜雄主任研究員がご対応くださいました。

展示は、幕末における行政組織の説明から始まります。
代官、藩主は村を直接統治したのではなく、両者の間には組合村のような中間支配機構が存在しました。
組合村は、代官所などの行政を補うとともに、村々に共通の利益を代表する役割も併せ持ち、惣代庄屋を中心に村民の自治により運営されていました。
このような隣保共同の組織が、明治初期の行政組織に移行していく過程がよく理解できました。

1868年に第1次兵庫県が成立した後、翌年、県内に19の区が置かれると、板宿村と周辺の村々の地域は第3区となりました。
区には会議所が置かれ、区長は「入札」つまり選挙で選ばれました。

第3区に残されている「入札規則」では、自書署名捺印が要求され、白票は禁止されていました。
第3区では、惣代庄屋であった武井善左衛門(武井伊右衛門の父)が区長に就任しました。

幕末の地域リーダーが明治維新後の新制度の下で、公選職として選ばれていったことが窺えます。

近代日本の地方制度は、1878年に府県会規則などいわゆる三新法が制定されて基礎がつくられました。
今回の展示では、いわばその前夜にあたる過渡期の地方行政、自治の実態の一端に触れることができ、たいへん有意義でした。


2018年6月13日
から 久元喜造

犯罪被害者への支援を強化します。


犯罪により被害に遭われた方に対しては、社会全体で支援をしていくことが必要です。
国からの犯罪被害者等給付金制度などに加えて、神戸市では、平成25 年4 月に「神戸市犯罪被害者等支援条例」を施行し、犯罪被害者への支援を行ってきました。

このような中、平成9年に発生した須磨区の連続児童殺傷事件から20 年が経過し、改めて犯罪被害者への支援のあり方が問われています。
また全国犯罪被害者の会「あすの会」がこの6月に解散し、同会のみなさんの想いを引き継いでいくことが求められています。
こうしたことから、神戸市では 、現行の犯罪被害者支援方策を拡充することとし、一昨日に開会した神戸市会に、条例の改正案を提案することにしました。

今回の改正では、現行条例で規定している日常生活への支援策、すなわち「 一時的な生活資金の支給」「 一時的な住居の提供」「 雇用の安定及び確保」に加え、「 子どもの教育支援」 を追加することとし、これらの支援策を市の責務として行うことを明確化します。
また、犯罪被害者が各種行政手続を行う際の窓口の一元化など、プライバシー保護に努めることを市の責務として明記しました。

条例改正案を議決いただければ、具体的な支援策として、家庭教師の費用や通学時の送迎費用等に対する補助 、就労支援金、転居後の家賃補助を新設するとともに、 一時支援金の増額、市営住宅家賃の無償化などを実施します。
今回の改正により、神戸市の犯罪被害者の方々に対する支援策は、全国の自治体の中でもトップクラスの水準となります。
今後とも、犯罪被害者に寄り添った対応ができるよう取り組んでいきます。