久元 喜造ブログ

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』


筆者は、ポピュリズムを「大衆の人気に基づく政治」と定義づけ、ポピュリズムは戦前から存在した、と主張します。
まず詳しく触れられるのが、日露戦争の講和に反対した日比谷焼き打ち事件です。
1905年8月、日比谷公会堂で開催された「国民大会」に集まった群衆は、講和に賛成の論陣を張っていた国民新聞社、内務大臣公邸を襲撃、東京市内の派出所の約7割が焼失したのでした。

大正に入ると、米騒動などの「民衆騒擾」が繰り返される一方、普通選挙要求運動が広がり、「対中強硬政策運動」、米国の「排日移民法排撃運動」などが展開されていきました。
1925年、護憲三派の加藤高明内閣により「普通平等選挙法」が成立、日本は政党政治の時代に入っていくのですが、翌年1月に成立した第1次若槻礼次郎内閣では「松島遊郭事件」「陸軍機密費事件」といったスキャンダルが立て続けに起き、マスメディアはその始終を詳しく報じました。
当時は現在の週刊誌や大衆紙はほとんど存在せず、新聞がスキャンダル報道の役割を担っていました。
関東大震災後に起きた「朴烈怪写真事件」報道の一部始終も、たいへん興味深いものでした。

不毛な政争に明け暮れる政党は国民に愛想をつかされ、マスメディアは「清新な」軍部、革新官僚、そして「天皇親政」に期待を寄せ、満州事変、国際連盟脱退、日中戦争を支持する論陣を張っていきます。
戦前日本のポピュリズムは、近衛文麿内閣のときにクライマックスを迎え、日本は破局へと突き進んでいったのでした。
筆者の歴史観がストンと落ちたわけではありませんが、マスメディアの論調をはじめ新しい発見がたくさんありました。