久元 喜造ブログ

「道の駅 淡河」にて

2013年7月13日
から 久元喜造

「道の駅 淡河」10周年

北区淡河町の「道の駅 淡河」が、開業10周年を迎え、きょう記念事業が行われました。

「道の駅」の制度ができたのは、1993年4月のこと。一般道路でも、高速道路のサービスエリアのような休憩施設を、という声が高まったことが背景でした。
神戸では、2003年4月に、「道の駅 淡河」が、政令指定都市で初めて誕生しました。

北区淡河町は、六甲山系の北側に位置し、町の中央を淡河川が流れる、自然が豊かな田園地帯です。
小部小学校時代の恩師は、ここ淡河から、神姫バス、神戸電鉄を乗り継ぎ、鈴蘭台の小部小学校へ通っておられました。
私は、昨年11月に神戸に帰ってきましたが、ほどなく、恩師がその年の1月に亡くなられていたことを知りました。
下の写真は、昨年12月、恩師の遺影に帰郷を報告するため、恩師宅をおたずねしたときに撮影した、淡河の風景です。

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淡河は、米どころで、代表的な酒米、山田錦の産地として知られますが、新鉄砲ユリ、チューリップなどの花の栽培のほか、そば、野菜づくりにも力を入れています。
「道の駅 淡河」では、豊富な種類の淡河産野菜・果物のほか、新鉄砲ゆりやチューリップ、北神みそといった地元特産品を揃えています。
また「レストランそば処 淡竹」では、淡河十割そばを楽しむことができます。JAや地元女性会が中心となって運営が行われており、多くのお客で賑わっています。

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「道の駅 淡河」10周年記念事業では、野外でも、たくさんの産品が販売され、地域のみなさんによるアトラクションも行われました。
平成24年度の来場者数は約20万人、売り上げは2億円を誇ります。
「道の駅 淡河」、そして、淡河町のすばらしさを、広くもっと知っていただき、ひとりでも多くの方に訪れていただきたいと願い、会場を後にしました。


2013年7月12日
から 久元喜造

組織いじりは、ほどほどに。

国と地方で長く行政に携わってきましたが、新しくトップに立った方は、自分が力を入れたい分野を担当する組織を新たにつくろうとする傾向があるように見受けられます。
選挙で自分が有権者のみなさんに約束した公約を実現するためには、そのための態勢が必要であることは理解できます。

しかし、相当規模の職員集団を必要とする仕事がいまだないにもかかわらず、新しい局や部、あるいは課を新設するのは考え物です。
というのは、国であれ、地方自治体であれ、はるか以前から行政改革が求められ、全体の組織や職員数を増やすことができない中で、新しい組織をつくれば、すでにある組織、局、部など廃止したり、縮小する必要があるからです。
トップがやりたい仕事をやる組織をつくり、一方で、現実の仕事と格闘している職場の職員や組織を減らすのは、現実の仕事に支障がでかねないし、行政サービスの水準を低下するおそれがあり、また、職員の士気にも影響しかねません。

トップが新しい政策を掲げ、実現しようとするときには、企画部門、あるいは、その政策分野に関連が深い局などの政策担当セクションにおいて、政策の具体化を図ることから始めるべきだと思います。
そして、政策が具体化したら、既存の組織をうまく活用しながら、必要に応じて、その組織の拡充を含めて体制を整備し、その実施を図るべきだと思います。

そもそも、自ら掲げた政策の実現を、「こういう組織を新設しました」といってアピールすることは、邪道であり、本末転倒です。
国民や住民は、選挙で約束した政策がどのように実現されるのかに関心があるのであって、役所の組織がどうなるのかは、関係がないことです。

それに、組織の改編はコストがかかり、市民や職員にも負担をかけることを忘れてはなりません。
役所の組織を表示する標識、案内板、プレートのほか、役所の文書など、すべての表示を変えなければなりませんし、徹底するのにとても手間暇がかかります。

下の看板では、「生活文化観光局」の名前が見えますが、この局は、平成18年に廃止になっています。

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この看板があるのは、市役所の真向いのフラワーロード沿いです。
市役所のすぐ目と鼻の先でも、こんなありさまです。
組織いじりは、ほどほどにすべきではないでしょうか。


2013年7月11日
から 久元喜造

ぼくは、人魂を見た。

あれは、確か、鈴蘭台に引っ越したばかりの、昭和39年か40年だったと思います。
鈴蘭台から有馬街道の二軒茶屋に向かう県道があるのですが、夜、その県道を少しはずれた里道を、両親、弟と4人で散歩していました。

静かな田園風景でした。
周りには田圃が広がり、畦では蛍がひっそりと光を放ち、あたりには蛙の声が響いていました。
田圃の向こうには、神戸電鉄三田線との間に、なだらかな雑木林がありました。

風がほとんどない、夏の夜だったと記憶しています。

ふと、雑木林の方に目をやると、オレンジ色の火の玉が見えたのです。
火の玉は、雑木林の麓から昇って行っているようでした。
3つか、4つだったと思います。
ゆらゆらと揺れるように、ゆっくりと、雑木林を背にして昇っていき、そして、消えていきました。
とても神秘的な光景でした。

私は、とても驚き、呆然としました。
何か、信じられないことが起きたように感じました。

私は、興奮して、
「あれ、見て!人魂や、人魂!、まだ昇ってる、昇って行ってる!」
と叫びましたが、両親と弟は、割に冷静で、
「そやな」「人魂やな」
「なんかのガスが燃えとんやろな」
と、冷静そのものだったことも思い起こします。

あれから、半世紀近い歳月が流れ、昨年の4月26日、毎日新聞の夕刊、「私だけのふるさと」シリーズに、作家の江上剛さんの追憶が掲載されていました。
タイトルは、「白いひとだま 生も死も身近に」
江上さんのふるさとは、兵庫県山南町(現在は丹波市)です。

「夏の夜、何人かで縁側に座って夕涼みをしていた時のこと。杉の木の間に見えるわらぶき屋根の上に、ぽんと火の玉があがったんです。白くて丸い光がぽわっと浮かんだのを全員が見て、「あっ」と声が出て」

誰かが「あそこのおばあやちゃん、しんだんやなあ」とつぶやいたそうですが、次の日に聞くと、本当にその家のおばあちゃんが亡くなっていた、と江上さんは回想しています。

なかなか信じられないことかもしれません。
しかし、この世には、理屈で説明できないことがあることも事実です。
私も、オレンジ色の火の玉がゆっくりと昇っていくのを見たとき、人の生死に関わる何かが起きているような気がして、不思議な感覚に襲われたのでした。

 

 


2013年7月10日
から 久元喜造

奇書?「これでいいのか 神戸市」の問題提起

日本の特別地域「これでいいのか 神戸市」(マイクロマガジン社)。
表紙カバーには、「神戸の 素顔を 暴く!」の大きな字が躍ります。

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少々長いのですが、「はじめに」を引用させていただきましょう。

「オシャレ」
「エキゾチック」
「行きかう女の子がかわいい」、

神戸という街を擬人化したらさぞがしモテることだろう。

実際に神戸は国内有数の観光地である一方、イメージで語られるほど素晴らしい街ではないことは、
この街に暮らす読者諸兄が最も痛切に感じている。

確かに、高度成長期のころには『株式会社・神戸市』とも称され、
ポートアイランドや六甲アイランドの造成事業など、
斬新なチャレンジで世の中の注目を集めてきた。

ただ、いま神戸市のあちこちから聞こえてくるのは景気の悪い話ばかりである。
ガラガラの観覧車が寂しく回るハーバーランド、
ゴーストタウンのような一画もあるポートアイランド、
そしてガールズバーのケバいおネエちゃんばかりがハバを利かせ、
飲食店は閑古鳥が鳴く三宮の歓楽街――。

ただ、街に人がいないのも、産業に元気がないから当然ではある。
かつては国際貿易の拠点として港が存在感を発揮し、
のちには鉄鋼や造船といった重工業が街の活気を生み出してきたが、
いまや起爆剤となる存在すら見当たらない。

せっかくスパコンを作っても
「2位ではダメなんですか?」とケチがつけられた途端、
本当に2位に落ちてしまう始末である。

神戸を愛するからこそ、いまこのタイミングで声を大にして
「これでいいのか神戸市!」と言わせてもらいたい。

街を包む閉塞感は今に始まったことではなく、
阪神・淡路大震災以来ずっと続いてきたものであることは百も承知。

ただ、すべてを震災のせいにして立ち止まってきた時間がいささか長すぎはしないだろうか?

本書では地域性、行政、気質などさまざまな見地から
神戸市が抱えるタブーや問題点に鋭いツッコミを入れつつ、
神戸の街を紐解いた一冊である。

神戸人として頭に来ないと言えば嘘になりますし、明らかな間違いや誇張が含まれていますが、否定しきれない事実がたくさん含まれていることも確かです。
編者は、神戸にゆかりのある3人のライター。
鋭いツッコミの中に、神戸への愛情が感じられます。

「プライドの高い神戸人のこと、ただ黙って一地方都市に甘んじるのは面白くないはず。
「いつやるの?今でしょ!」この言葉を最後に神戸人に贈りたい」

神戸人へのエールとして素直に受け止め、公約づくりをスピードアップさせたいと思います。


垂水マミーズの皆さん

2013年7月9日
から 久元喜造

垂水「親子ひろば そらまめ」訪問

きょうは、垂水商店街北側、陸ノ町自治会館に、「親子ひろば そらまめ」を訪ねました。
運営しておられるのは、 垂水マミーズ
垂水区在住で、幼稚園、小学校のお子さんをお持ちのお母さんがつくられたグループです。

お邪魔したのは、お昼前でしたが、自治会館の部屋の中は、元気に走り回る子どもさんの声が響いていました。

お話をお聞きし、子育て中のお母さん方の意見交換、交流の場の大切さを実感できました。
幼稚園、保育所に通っている子供さんをお持ちのお母さんが、小学生のお子さんをお持ちのお母さんから、その子供さんが幼稚園、保育所に通っていたころのお話を聞き、いろいろとアドバイスをいただいたりしているとのこと。
実体験に基づくお話は、とても参考になっていることでしょう。

また、相談相手がいない子育て中のお母さん方は、ストレートに学校に対して悩みをぶつけがちになるというお話もお伺いしました。
学校現場で、先生方がたいへん疲れているという話は、以前から耳にします。そのひとつの原因が、保護者のみなさんから持ち込まれるたくさんの相談にこたえるという仕事があるようですが、すべての子育て相談に学校が対応するのも無理があることでしょう。
お母さん方に、互いに相談できる相手がいる場所があることは、いろいろな意味ですばらしいし、大切なことだと実感しました。

意見交換では、近年、子供の数が減り、地域での交流の機会が減っていることともあいまって、小中学生が赤ちゃんと触れ合える機会がほとんどないこともお聞きしました。
時代環境が大きく変わっている中で、新しい取り組みが求められているように感じます。

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これまであまり知らなかった分野のお話をお聞かせくださいました、「親子ひろば そらまめ」のみなさん、ありがとうございました。

 


案内板

2013年7月8日
から 久元喜造

神戸の案内板のお寒い現状

三田へ行くのに北神急行に乗ろうと、新神戸駅近くでタクシーを降りました。
入り口はすぐに見つかりましたが、そのとき目に入ったのが、下の案内板です。

地下に入る階段の上に掲示されています。

案内板

ごらんのとおり、書かれている文字は、消えてしまっていて、ほとんど判読が困難なのですが、よく見ると、

左側には、
「北野町 異人館通り 加納町 市バス (その下は判読不能)」
右側には、
「市営地下鉄 新神戸駅 北神急行 (以下は判読不能)」
と読めます。

看板が設置されて年月が経ち、文字が消えていったのでしょう。

新神戸駅は神戸の顔であり、このような案内板が長年、放置されてきたのは、たいへん残念です。
予算がないのかもしれませんが、神戸を訪れたみなさんに、こんな看板を塗り替えるお金もないのかと思われるのは、悲しいです。
市民のみなさん、神戸を訪れるみなさんの目に触れる案内板については、わかりやすく、そして、恥ずかしくないものにしていきたいですね。

東京などほかの街に住み、神戸に帰ってきた者のひとりとして残念に思うのは、神戸は、街の中の案内板が少ない上に、わかりにくく、デザインもふぞろいであるように感じられることです。

これでは、観光都市の、それこそ看板が泣きます。
また、長年、神戸に住んでいる市民にとっても、広い神戸の中で、これまであまり行ったことがない場所も多いことでしょう。
私たち市民が街を歩くとき、わかりやすい案内板があることは、とても大切なことだと思います。

文字が読めない案内板が放置されてきた背景には、維持補修費が年々減らされてきたことがあるのかもしれません。
経費の節減が続いてきたからではありますが、やはり必要な予算は確保して、あまりにもみすぼらしい現状は、ぜひ改善していきたいと思います。


2013年7月7日
から 久元喜造

出馬表明・1ヶ月

神戸市長選挙への出馬表明を、6月7日にさせていただいてから、1月が経ちました。
あっという間でした。

出馬表明の記者会見には、家内にも同席してもらいました。
家内は、私とはまったく違う分野で生きてきましたので、自分がこれからやろうとしていることを、間近にみてもらいたいと思ったからです。
自分なりに感じたことを、 久元祐子ブログ に書いてくれました。
1ヶ月前の記事ですが、引用させていただきます。

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主人の神戸市長選・出馬表明(6月7日)

主人の久元喜造が、たくさんの団体から神戸市長選挙への立候補の要請をいただき、逡巡の末、今日、立候補の表明をしました。
午後3時から、 神戸ポートピアホテルで記者会見を行いましたので、同席しました。
新聞社、テレビ局の記者のみなさんの前で、2時間近く、全く原稿を見ずに政策と決意を具体的に述べていて、あらためて神戸への想いの強さを感じました。

若い頃から自治の道を歩んできて、私とは全然違う分野なので、仕事の内容を聞いてもほとんどわからなかったのですが、新しい部署に変わるたびに朝の5時に起きて勉強し、夜遅くまで仕事をし、有事や国会対応では徹夜で役所に詰める、という人生を見てきました。

そのような自治のプロとしての日々の積み重ねは、故郷のためにあったのかもしれない、と思った次第です。長い経験と知恵が、故郷のために生かされるよう、応援したいと思っています。
後援会や広報スタッフのみなさまの支えで、初めて、政治活動のスタートラインに立たせていただいたようです。

主人の母は、「息子は、お国に捧げた」が、口癖でした。
お墓参りを欠かさない主人ですが、
「選挙には出たらあかん!」
と言っていた両親は、天国で今何と言っているでしょう。
「神戸に捧げた息子や」
と言っているかもしれません。

今日は、主人の祖母と主人の母の形見を一つにしたペンダントをして、会見会場に入りました。


2013年7月6日
から 久元喜造

「待機児童ゼロ」をめざして

昨日は、神戸私立保育園連盟の兵庫・中央・長田ブロックの研修懇親会にお邪魔させていただきました。

「保育所のみなさんが社会的使命をしっかり果たしていただくように支援することが、行政の役割です」、
「これまでの歩みをしっかりと受け継ぎ、一歩でも二歩でも前へ進めることができるよう、全力を尽くします」、
と、挨拶させていただきました。

保育園については、5月20日に、横浜市が「待機児童ゼロ宣言」をしたことが記憶に新しいですね。
横浜市が、多額の予算を子育てに投入し、保育所の定員を増やしてきたことはそのとおりですし、横浜市の努力は率直に評価すべきだと思います。
ただ、「待機児童」の数え方には一定の幅がありますし、横浜市においても、保育士さんの確保などいろいろな課題があることは、横浜市当局も認めているところです。

横浜市の「成功」が華々しく報道されたためか、残念ながら、ほかの自治体は努力が足りないのではないか、というお話もときどき耳にします。
しかし、ほかの自治体が手をこまねいてきたわけではありません。
神戸市も、保育所の増設を続けてきており、平成25年4月現在の待機児童数は、337人で、近年では最低の水準になっています。

子育て中の女性が安心して働くことができる社会をつくっていくことは、たいへん重要な課題です。保育所を増やしていくことには、高い優先順位がつけられるべきです。
「待機児童ゼロ」は、私も、公約に掲げたいと思います。

ただ、「待機児童ゼロ」の達成を至上命題とし、そのためにどんなことでもやる、という姿勢が仮にあるとすれば、それは、ひずみや弊害を生むおそれがあります。
残念ながら、週刊文春7月11日号など、横浜市の行政に批判的な報道も見られるようになりました。

女性が安心して働くことができる社会をつくることは、大切な課題です。安心して子どもを預けることができる保育所を増やしていくことには、高い優先順位がつけられるべきです。
「数」とともに、「質」の確保が求められることを忘れてはならないと思います。

 


2013年7月5日
から 久元喜造

「きょうは帰れない」 ― 私が好きな曲② 

1982年にリリースされた加藤登紀子のアルバム「愛はすべてを赦す」の中に入っている曲です。
1920年代、30年代の曲を集めたアルバムで、とても魅力的な曲があつめられています。
青森にいたとき、奥羽線や五能線に乗り、車窓から景色を眺めなら、ウォークマンでこのアルバムを繰り返し聴いていました。
ピアノは、坂本龍一です。

「きょうは帰れない」には、「ポーランドのパルチザンの歌」というサブタイルがついています。

きょうは帰れない 森へ行くんだ
窓辺でぼくを 見送らないで
君の眼差しが 闇を追いかけ
涙に濡れるのを 見たくないから
涙に濡れるのを 見たくないから

まるで、映画のシーンを見ているような歌詞ですね。
パルチザンの若者が、恋人の部屋を抜け出て、庭に下り立ち、夜の闇に消えていく。
振り返って窓辺を見れば、恋人は、自分がどこにいるのだろうと、視線をあちこちに動かし、探している。
闇に消え、森にわけいっていく自分の姿は、彼女には見えないが、自分には、涙に濡れる彼女の姿が見える、
そんな恋人の姿を見るのがつらいので、もう、窓辺で自分を見送らないでほしい ―
そんな内容の歌です。

パルチザンの運命は、過酷でした。
多くの同志が、戦いの中で斃れていきました。
そして自分の運命は、主人公自身がよく自覚していたようです。
3番の歌詞です。

もしも春までに 帰らなければ
麦の畑に 種を蒔くとき
僕の骨だと 思っておくれ
麦の穂になって 戻った僕を
胸に抱きしめて 迎えておくれ
胸に抱きしめて 迎えておくれ

もう恋人のもとに戻れないかもしれない・・・
それだけに、別れはつらいものだったことでしょう。
加藤登紀子は、悲しみにくれながら、戦いに赴く若者の心情を、哀感を込めて歌い上げていました。


2013年7月4日
から 久元喜造

「地方自治は、民主主義の学校」

広く流布されている言葉は、ときどき、原典に当たってみることも有益です。
たとえば、「地方自治は、民主主義の最良の学校、その成功の最良の保証人」という格言です。
この言葉を残したのは、ジェームズ・ブライス(1838-1922) ― 駐米大使も務めたイギリスの政治家・外交官でした。

ブライスは、1870年に初めてアメリカを訪れて以来、その社会に魅了され、1888年、アメリカを詳細に叙述した大著「アメリカ共和国」(The American Commonwealth)を出版しました。

ブライスは、「アメリカ共和国」の中で、ニューイングランド地方におけるタウンミーティングについて紹介しています。
タウンミーティングでは、住民が、学校の建設、道路の整備、地域の清掃、共同牧場の管理などを議論し、そのための費用を住民がどのように分担するかも含め、自分たちが決定していました。
ブライスは、こうしたタウンミーティングのあり方を、政治において、汚職や無駄遣いを防ぎ、注意深さを促すとともに、満足度を高める最良の仕組みだと考えました。

晩年、彼は、アメリカを含め、さまざまな国の政治体制を見聞した経験をもとに、「近代民主政治」(Modern Democracies)を著します。
その中で地方自治の意義について改めて論じ、冒頭の有名な言葉を残しました。
地方自治が民主主義の「最良の学校」であるのは、地方自治が「住民に対して、共同の課題についての共同の利害意識を持たせ、また、共同の課題が効率的・公正に処理されるよう注意を払い、個人・共同体としての義務を自覚させる」とともに、「地方自治制度が、常識、道理、判断力、そして、社交性を育成する」からだ、とブライスは考えました。

少なくとも、ブライスは、公選で選ばれた議会や首長がいるという理由だけで、地方自治に価値を認めたわけではありません。
顔の見える、小さな地域社会において、いきいきとした自治の営みがあったことに着目して、冒頭の言葉を残したことを忘れるべきではないと思います。