宇野常寛『庭の話』(2025年6月7日のブログ)で少し触れた場所-銭湯について書きたいと思います。
宇野は、「庭」の比喩で表現されている場所は、共同体のためのものではなく、私的な場所が公的に開かれたものでなければならないと指摘します。
この条件を満たすのが、銭湯です。
高円寺にある「小杉湯」の経営者、三代目の平松佑介との対話を通じて、銭湯について語られます。
銭湯は、古き良き共同体を体現する場所と見られることが多いのですが、平松はその実態は共同体的なイメージとは少し離れたものだと言います。
顔なじみのご近所同士が親しく会話を交わす、というよりは、「いつも見る顔を確認して何となく安心する」程度で、「目礼や、かんたんな挨拶すらしないケースがほとんど」だと。
宇野は、小杉湯に来る人たちは、自分の物語を「語ることなく、同じ場所を共有している」、つまり「承認を交換する相互評価のゲームをプレイすることなく共生している」と指摘します。
宇野はいま必要なのは、銭湯のような、生活の一部となり、そしてそこにいる誰からも程よく「気にされない」場所なのではないかと言います。
「ただ裸で身体を洗って、コーヒー牛乳を飲んでいるだけなのだけれど、そこに集う人びとが相互に前提として尊重し合っている、いや「排除しない」、そんな場所こそが、今の社会には必要なのではないかと。
銭湯は、神戸でも少しずつ姿を消しています。
神戸市は銭湯に社会的価値を見出し、その維持のためにさまざまな施策を展開しています。
「庭の話」の中に出てくる銭湯についての分析は、その価値について新しい視点を提供してくれたように感じました。(敬称略)