久元 喜造ブログ

2013年9月11日
から 久元喜造

三宮駅前、朝立ち・夕立ち

今朝は、三宮駅北口で、駅立ちをしました。

県会、市会の議員のみなさまが、多数応援にかけつけてくださいました。本当にありがたいことです。
おかげさまで、手応えを日増しに感じています。
初めてお会いする方から、声をかけられたり、手を振ってくださったり、声援をいただくのは、感激ひとしおです。
一緒に写真を撮ってください、とおっしゃっていただく方もいらっしゃいました。

最近の街頭活動では、「神戸ウェイクアップ通信 Vol.1」を配らせていただいています。

「神戸ウェイクアップ通信 Vol.1」の表面では、自筆のお手紙を書いています。
wake-11

裏面には、これまでいただいている応援メッセージを掲載しました。

wake-22

きょうも、予想以上にたくさんのみなさまに受け取っていただき、スタッフのみなさんは、一瞬、なくなってしまうのではないか、と、嬉しい心配をしたようです。

明日の朝は、名谷駅です。
明日も、見知らぬみなさまとの出会いが、とても楽しみです。

 

 

 

 


2013年9月10日
から 久元喜造

世界は正しい道を歩んでいるのだろうか。

きのう、三宮の事務所に、神戸大学 の4人の学生のみなさんが、訪ねて来てくれました。
ひとりは、大学院生、3人は、政治学を専攻する法学部の3回生でした。

選挙のこと、神戸のこと、就職活動のこと、政治学の最近の動向などなど、話が飛翔しているうちに、政党のありかたについての議論になりました。
政党の存在意義、そして、政党が拠って立つ理念や政策の違いはどうあるべきか、現代日本においては、それらは明確なのだろうか。

私は、自問自答しながら、お話ししました。

私たちが高校生、大学生の頃、米ソ対立の冷戦時代で、イデオロギーの違いは明確だった。だから、政党が拠って立つイデオロギーの違いによって、政党の違いも明確だった。
1960年代には、キューバ危機があった。小学校に入ったばかりでよくわからなかったけれど、大人たちが、核戦争によって人類が滅亡してしまうかも知れないと怯えていることに気づいていた。
そして、大学時代に学んだ国際政治も、両大国がいかに核戦争を回避することができるかに大きな関心を寄せていた。
そして、多くの人が信じていた ―  冷戦と米ソ対立が終われば、私たちは安定した国際社会の中で、平和に生きていることができるようになる、と。

そんな時代でも、アフガニスタンやカンボジアは、微妙な東西間のバランスの中にあったのだろうが、平和で穏やかな国だった。
カンボジアは、青年国王シアヌークが治める王国で、農業も漁業も盛んな豊かな国だった。
アフガニスタンは、やはり穏健な王制国家で、ゆったりとした時間が流れている国のように見えた。

その後の両国がたどった、そしてとくにアフガニスタンが今も向き合っている苦難を思えば、そして、ほかの多くの国々において多数の地域紛争が頻発していることを思えば、世界は、私たちが子どもの頃から比べて、よい方向に向かっているのだろうか?
正しい道を歩んでいるのだろうか?

必死に支持拡大に動かなければならない時期に、何をのんびりした議論に加わっているのか、とおしかりを受けそうですが、つかの間の、若者たちとの楽しい時間でした。


2013年9月9日
から 久元喜造

「生きてりゃいいさ」 ― 私が好きな曲④

この曲は、「きょうは帰れない」(7月8日) と同じ、加藤登紀子のアルバム「愛はすべてを赦す」の中に入っています。
作詞:作曲は、河島英五です。

君が悲しみに 心閉ざした時
思い出してほしい 歌がある
人を信じれず 眠れない夜にも
きっと 忘れないでほしい

生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
そうさ生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも 立ちどまりはしない
めぐりめぐってゆくのさ

手のひらを合わせよう ほらぬくもりが
君の胸にとどくだろう

生きていることへの応援の歌ですね。
自棄酒はほとんどしないのですが、落ち込んだとき、日本酒をちびちび舐めながら、この歌を口ずさんだことがよくありました。

一文なしで 町をうろついた
野良犬と呼ばれた 若い日にも
心の中は夢でうまってた
やけどするくらい熱い想いと

一文無しになったことも、野良犬と呼ばれたことはありませんが、人間、誰でも、逆境の中にあることはあるものです。
そんなとき、それを乗り越えることができるのは、心の中に夢があるのかどうか、それも、やけどするくらい熱い想いで埋まっているのか、ということかも知れません。

恋をなくした ひとりぼっちの君を
そっと見つめる人がいるよ

恋をなくしたとき、そっと見つめる人って・・・・

君にありがとう とてもありがとう
もう会えないあの人にありがとう
まだ見ぬ人にありがとう
今日まで私を 支えた情熱にありがとう

神戸に帰ってきて、もう一生会えないと思っていた人と会える機会を持つことができていることに、感謝しています。
これからも、たくさんの出会いがあることでしょう。
まだ見ぬ人々にも感謝です。

そして、ある種の情熱が、自分をこれまで支えてくれてきたのかもしれません。
そのことにも感謝です。

手のひらを合わせよう ほらぬくもりが
君の胸にとどくだろう

手のひらを合わせ、手のぬくもりを感じながら、ともに生きていることの幸せを感じたいものです。


2013年9月8日
から 久元喜造

山田中学校卒業生ならびに関係者の集い

きょうの日曜日、 神戸市立山田中学校 卒業生有志のみなさんが、「久元きぞう氏を囲む会」を開いてくださいました。
北区鈴蘭台の 北区民ホール大ホールに、なつかしい同級生をはじめ、山中の卒業生のみなさんが集いました。
4名の恩師の先生に出席いただきましたことも、ほんとうにありがたいことでした。

1969年(昭和44年)3月、箕谷の山田中学校を卒業してから、44年あまりの歳月が流れました。
神戸に帰ってきてから、もう会えることはないだろうと思っていた同級生、先輩、後輩に次々に再会することができ、とてもありがたく感じていますが、きょうも、久しぶりの再会がありました。

山田中学校には、たくさんの思い出が詰まっています。

東京にいたとき、不思議なことに、朝、洗面所でひげを剃るとき、ほとんど毎日、山田中学校の校歌の1番に出てくる丹生山の雄姿が浮かんでくるのです。

山田中学校に通っていたとき、朝、箕谷の駅を降り、有馬街道を渡って、小川の土手の里道を通ったものですが、そこからは、いつも、山田中学校と、その後ろに聳える丹生山の姿が目に入ってきたものでした。
冬、頂上付近は雪化粧することがときどきあり、忘れがたい光景でした。

集いの終わりに、山田中学校の校歌をみんなで合唱しました。
同級生はみんな一緒に、ステージに上がって、歌いました。

130908-1

家内の久元祐子が、ピアノで伴奏をしてくれました。

130908-2

とても心温まる、懐かしく、楽しいひとときでした。

 

 

 

 


2013年9月7日
から 久元喜造

神戸市中央卸売市場へご挨拶

きょうの土曜日は、朝から、兵庫区の 神戸市中央卸売市場(神戸本場) にお邪魔しました。
卸売、仲卸、関連業者のみなさんのお店を一軒一軒訪ね、ご挨拶をさせていただきました。

市場に来ると、いつもわくわくします。子どもの頃、魚屋さんがたくさんあった、湊川市場や東山市場に行くのが大好きでした。
札幌におりましたときは、札幌中央卸売市場 にときどき行きました。初競りに連れて行っていただいたことも、懐かしい思い出です。

しかしながら、今、どこの中央卸売市場も、さまざまな問題を抱えています。
水産物や青果などが市場を通さずに取引されるようになり、大手スーパーの取引の状況ともあいまって、市場の縮小が続いています。
しかし中央卸売市場は、神戸市民の台所であり、市内の中小小売業者の仕入れの場として、その役割をしっかりと果たしていくことが求められています。
神戸市は、市場の開設者としての責任を全うしていく義務があることも、当然です。

西区や北区の農業、また、神戸の水産業を活性化していく上でも、中央卸売市場の存在は欠かすことができません。
中央卸売市場、卸、仲卸、小売商店、そして、西区、北区の生産者が、連携しながら、国産の安全でおいしい産品を、市民の台所に届けていく、そして、そのような生産流通の営みを通して、神戸に、にぎわいと活気を取り戻していければと思います。

中央卸売市場本場には、これまでも何度もお邪魔していますが、改めて、市場を元気にするため、自分自身しっかりと考え、行動したいと思いました。。
隣には、イオンの進出が決まり、市場とイオンとの共存共栄関係を築いていかなければなりません。
難問山積ですが、それぞれの立場で知恵を出し合い、少しでもよい方向を見いだしていきたいと思います。

 


2013年9月6日
から 久元喜造

未来に向かって

きょうは、夕方、6時半から、神戸文化ホールにおいて、自由民主党政談演説会が行われました。
金曜日の夜にもかかわらず、たくさんのみなさんにご出席いただき、感激しました。1階の後ろで、ずっと立って聞いておられたみなさんもいらしゃっり、申し訳ございませんでした。

兵庫県連会長の末松信介参議院議員、神戸市内の盛山正仁、関芳弘、藤井比早之各衆議院議員から、それぞれ、心のこもった、また、熱の入ったアドバイスをいただきました。
神戸市会の安達和彦自民党議員団団長、浜崎為司自民党神戸議員団団長からご挨拶をいただきました。

矢田市政12年間の中で、神戸市政は、阪神・淡路大震災後の財政危機から脱することができました。
これまでの神戸の歩み、歴史にしっかりと立脚しながら、神戸は、未来をまっすぐに見据えて、将来ビジョンを描くことができるステージを迎えることができたと思います。

神戸は、明治以来、常に未知の世界にチャレンジし続けてきた都市です。
そのような土壌の上に、未来を想像するビジョンをしっかりと描きたいと思います。

三宮の再開発をこぢんまりと行うのではなく、新神戸駅からフラワーロードを南下し、三宮駅周辺を大きくエリアに取り込み、ウォーターフロントへ、そして、元町や旧居留地区をつっきって、元町商店街、さらにはハーバーランドをにらんだ、将来ビジョンをしっかり描きたい。

とても夢のあるビジョンとなるのではないでしょうか。
都市デザインや景観にも配慮し、神戸らしさをどのように盛り込んでいくのかも課題になります。


2013年9月5日
から 久元喜造

東京で、出版記念パーティー

昨日は、東京の霞ヶ関ビル内の 東海大学校友会館 で、拙著「ネット時代の地方自治」の出版記念パーティーを開催させていただきました。

神戸ゆかりの企業、旧自治省、総務省の先輩、同僚、ゆかりの自治体、マスコミ、学会関係など、約400名のみなさんに出席いただきました。神戸側から、私の後援会長をお願いしております、三ツ星ベルトの西河紀男会長、そして、矢田立郎神戸市長にご挨拶いただいた後、菅義偉官房長官、新藤義孝総務大臣、山口那津男公明党代表、片山善博元総務大臣から祝辞を頂戴しました。
それぞれに、たいへん心のこもったお言葉をいただき、感激いたしました。

菅官房長官が総務大臣をされていたとき、私は、選挙部長としてお仕えしました。片山慶応大学教授が総務大臣をされていたとき、自治行政局長としてお仕えしました。
ともに、私の長所も短所もよくご存知の上での、温かいお言葉をいただきました。
山口代表からは、私が大学の同期であることを紹介していただき、改めて光栄に存じました。
新藤大臣からは、どうして私のことをこれだけよくご存じなのだろうと驚くようなお言葉をいただきました。
また、大学のゼミでご指導をいただき、自治省入省以来、一貫してご指導をいただいてきた、西尾勝東京大学名誉教授に、来賓として出席いただきました。
乾杯は、石原信雄元官房副長官にお願いしました。

司会は、元NHKアナウンサーの宮田修さんにお願いしました。宮田さんは、阪神・淡路大震災の時、NHK大阪放送局から、余震に揺られながら、地震の模様を、冷静、沈着に、全国に、世界に、発信し続けられた方です。

地方自治一筋に生きてきた私にとり、長くご指導、また、お世話をいただいてきたみなさんから、温かい激励をいただきましたことは、誠にありがたく、忘れられない夜となりました。
ご出席いただきましたみなさん、そして、このパーティーのためにお骨折りいただきましたみなさんに、心より御礼を申し上げます。


2013年9月4日
から 久元喜造

「平成の大合併」への道すじ

20世紀の終盤から21世紀の初頭にかけての約10年余りの期間、「平成の大合併」が行われました。
神戸市は、「平成の大合併」には関わりませんでした。現在の東灘区、北区、西区において、合併が行われたのは、1950年代のことです。
それでも、この頃の合併によって神戸市に編入された地域にお邪魔しますと、合併のことがときどき話題になります。
それだけ、合併は、地域とっても、自治体にとっても、大きな出来事です。

私は、1980年代に青森県と京都府において、市町村行政を担当する地方課長というポストに就いたことがあります。市町村のみなさんと接し、さまざまな議論をする機会に恵まれたのですが、合併が話題になることはまずありませんでした。合併という言葉を持ち出すことすらタブーという雰囲気でした。

そのような雰囲気が長く続いた中で、どのようにして「平成の大合併」が始まったのでしょうか?
よく行われる説明は、地方分権の推進です。
1993年(平成5年)6月、衆参両院で「地方分権の推進に関する決議」が行われ、村山内閣の下で地方分権推進法が成立し、地方分権推進委員会(諸井虔委員長)が設置されて本格的に地方分権が推進されることとなりました。
このとき、地方分権に対しては、さまざまな立場から異論が出されたのですが、その中での有力な議論は、いわゆる「受け皿論」でした。つまり、機関委任事務の廃止や地方への事務権限の移譲などを内容とする地方分権を推進する上で、市町村が現状のままでは分権を進めるのは無理があり、市町村の行政体制の整備が必要だという議論でした。
そして、地方分権の「受け皿」をつくるための最大の方策が市町村合併だと考えられたのです。

地方分権推進委員会は、当初、この「受け皿論」を棚上げし、機関委任事務の廃止などの分権改革を先行させる方針でしたが、「受け皿論」は高まるばかりであったため、1997年(平成9年)の第2次勧告において「市町村合併の推進」に舵を切りました。

同時に、当時の状況を思い返してみますと、地方分権に関する動きと並行して、政治の側において、市町村合併を求める議論が急速に高まり、それが、奔流のようになっていったことです。
政治の世界で、とくに与党の中で、ある方向への議論が奔流のようになっていったとき、もはやそれを止めることはできないということは、何度か経験したことでした。


2013年9月3日
から 久元喜造

ゴミの減量をめざして。

きょうは、神戸のごみについて書いてみたいと思います。
神戸のごみ量は、大量消費型のライフスタイルの定着や、小規模世帯の増加などの影響、さらに平成7年の阪神・淡路大震災の影響もあり、一時は政令指定都市で、一人一日当たりのごみ量がワーストワンになりました。

その後、循環型社会への以降を目指し、家庭系ごみでは、「缶・ビン・ペットボトル」の分別収集(平成15年)、「単純指定袋制度」(平成20年)、「容器包装プラスチックの分別収集」(平成20年)が実施され、事業系ごみでは、「有料指定袋制度」(平成19年)が導入されて、新たな減量・資源化のための取り組みが行われてきました。

これらの成果もあって、平成24年度のごみ処理量はピーク時(平成12年度)の半分近くにまで減り、一人一日当たりのごみ量も、政令指定都市で第12位になりました。

また、神戸では、ごみ処理の過程でも、地球温暖化防止の観点を考慮し、焼却過程でCO2発生源となる容器包装プラスチックの分別収集のほか、4つのクリーンセンターで約4万世帯分の電力使用量に相当する約1.5億kwhを発電し、エネルギープラントとしての機能を果たしています。

将来にわたって持続可能な都市を築き上げていくためには、引き続き、ごみの減量・資源化を進めることが大切です。
そして、「低炭素社会」「自然共生社会」にも資する「循環型社会」の実現を目指していくことが求められています。


2013年9月2日
から 久元喜造

「子どもたちに伝えたい 灘の歴史」

私は、去年の11月から灘区に住んでいます。
灘区に住むのは初めてでしたので、灘区について少しでも理解を深めたいと思い、「子どもたちに伝えたい 灘区の歴史」を紐解いてみました。
子ども向けの書籍ですが、大人が読んでも飽きない、充実した内容です。

130831

監修は、田辺眞人先生、「灘区80年史編集委員会」編で、神戸学院大学講師の谷口義子氏を主筆とし、小島洋一氏、竹内隆氏、水池由博氏、矢野正人氏、脇坂和明氏の各氏がメンバーです。

灘区の歴史を簡単に振り返ると・・・・・
1889年(明治22年)に市制町村制が灘の地域に施行され、六甲村、都賀浜村、都賀野村の3つの村が出来ました。都賀野村は、1895年(明治28年)に、西灘村と名前を変え、都賀浜村は、人口が増え、1914年(大正年)に、西郷町となりました。
1929年(昭和4年)、西郷町、西灘村、六甲村の3町村は、そろって、神戸市に合併します。神戸市に区制が敷かれたは、1931年(昭和6年)のことで、3町村の区域は、灘区となりました。

さかのぼれば、神戸と大阪の間に鉄道が開通したのは、1874年(明治7年)のことです。このとき、天井川の石屋川には、川底に鉄道トンネルが掘られたことを、この本で初めて知り、驚きました。

阪神・淡路大震災の記述があります。
灘区では、934人の方が亡くなり、2万棟近い建物が被害を受けました。橋げたが落ちた、国道43号の岩屋高架橋の写真も掲載されていました。
「灘区の歴史」は、阪神・淡路大震災からの復興のあとをたどり、終わっています。
複雑で奥行きの深い地域の歴史を、わかりやすく記述していただいた、執筆陣のみなさんに、感謝申し上げたいと思います。