20世紀の終盤から21世紀の初頭にかけての約10年余りの期間、「平成の大合併」が行われました。
神戸市は、「平成の大合併」には関わりませんでした。現在の東灘区、北区、西区において、合併が行われたのは、1950年代のことです。
それでも、この頃の合併によって神戸市に編入された地域にお邪魔しますと、合併のことがときどき話題になります。
それだけ、合併は、地域とっても、自治体にとっても、大きな出来事です。
私は、1980年代に青森県と京都府において、市町村行政を担当する地方課長というポストに就いたことがあります。市町村のみなさんと接し、さまざまな議論をする機会に恵まれたのですが、合併が話題になることはまずありませんでした。合併という言葉を持ち出すことすらタブーという雰囲気でした。
そのような雰囲気が長く続いた中で、どのようにして「平成の大合併」が始まったのでしょうか?
よく行われる説明は、地方分権の推進です。
1993年(平成5年)6月、衆参両院で「地方分権の推進に関する決議」が行われ、村山内閣の下で地方分権推進法が成立し、地方分権推進委員会(諸井虔委員長)が設置されて本格的に地方分権が推進されることとなりました。
このとき、地方分権に対しては、さまざまな立場から異論が出されたのですが、その中での有力な議論は、いわゆる「受け皿論」でした。つまり、機関委任事務の廃止や地方への事務権限の移譲などを内容とする地方分権を推進する上で、市町村が現状のままでは分権を進めるのは無理があり、市町村の行政体制の整備が必要だという議論でした。
そして、地方分権の「受け皿」をつくるための最大の方策が市町村合併だと考えられたのです。
地方分権推進委員会は、当初、この「受け皿論」を棚上げし、機関委任事務の廃止などの分権改革を先行させる方針でしたが、「受け皿論」は高まるばかりであったため、1997年(平成9年)の第2次勧告において「市町村合併の推進」に舵を切りました。
同時に、当時の状況を思い返してみますと、地方分権に関する動きと並行して、政治の側において、市町村合併を求める議論が急速に高まり、それが、奔流のようになっていったことです。
政治の世界で、とくに与党の中で、ある方向への議論が奔流のようになっていったとき、もはやそれを止めることはできないということは、何度か経験したことでした。