久元 喜造ブログ

2022年11月13日
から 久元喜造

繁閑の差をなくさないといけない。


霞ヶ関の若手や中堅が次々に辞めていく現状を憂える声が高まっています。
日経新聞は、シリーズでこの問題を取り上げました。
離職の理由は、忙しすぎるということですが、問題は部署によって繁閑に大きな差があり、十分な対応がとられていないことです。
法律改正などを担当する部署は猛烈な忙しさですが、そうでない部署もたくさんあるのです。

自分の経験に照らせば、まさにそのとおりした。
東日本大震災のときは、不眠不休で対応に当たる部署がある一方、そうでない部署がたくさんあったのです。
政府全体の仕事の大半が震災への対応になったのは当然ですが、震災に関係のない部署には上からの指示や関与がなくなり、やることがなくなり、手持ち無沙汰で暇を燃す持て余している部署もありました。
全体としては、後者の方が多かったかもしれません。
私の知る限りでは、未曽有の危機であったにも関わらず、多くの府省では総動員体制はおろか、震災対応に明け暮れる部署への満足な応援体制すら取られなかったのです。
必死に頑張っているのに同じ府省内からの応援すら期待できないようでは、職員は疲弊し、やる気がなくなるのは当然です。

霞ヶ関の組織が硬直化する一方、自治体ではより柔軟な人員配置ができているように感じます。
神戸市では、必ずしも十分ではなかったところはあるかもしれませんが、コロナへの対応が始まった直後から、人事・組織を担当する行財政局の差配で、健康局への応援体制が組まれました。
ワクチン対応にも全部局の職員がローテーションで当たりました。
危機に際していかに最善のチームワークを構築できるかは、職員のみなさんの士気を確保する上でも大事な課題です。


2022年10月10日
から 久元喜造

関口高史『牟田口廉也とインパール作戦』


太平洋戦争中の作戦の中で最も無謀とされ、多数の戦死者、餓死者を出したインパール作戦。
テレビのドキュメンタリーでもときどき取り上げられ、その実像はどのようなものであったのか、以前から関心を持っていたので、「インパール作戦の”常識”を覆す」という帯に引かれ、購入しました。
読み始め、すぐに違和感を覚えました。
「序章 陸軍のメカニズム」で展開されるのは一般的な軍隊組織や戦争論ばかりで、インパール作戦を理解する上で前提となる日本陸軍の組織や指揮命令系統などに関する具体的な説明はほとんどなかったからです。
そして続く章が「牟田口廉也の実人物像」。
生い立ちから亡くなるまでの生涯が軍歴を中心に語られ、「指揮官として数多の重要な作戦で日本軍の勝利に貢献した」「参謀としても若い頃から実践的な活動の場を与えられ、高い評価を受けてきた」と小括されます。

本書の中心を為すのは、もちろんインパール作戦です。
1942年(昭和17年)5月に作戦が着想され、紆余曲折を経て命令として伝達され、実施されるまでの複雑で長い経緯が、東條首相、大本営参謀、南方軍、ビルマ方面軍の間の折衝の模様も含め、語られていきます。
作戦が開始されてからの説明には多くの頁が割かれますが、挿入されている地図と本文との対応関係もわかりにくく、作戦の展開を追うのにてこずりました。
作戦に関係した将校の言動も数多く取り上げられますが、著者の批判が随所に盛り込まれ、客観性に疑問を抱かせる引用のように感じました。

残念ながら、史実に基づき牟田口を擁護したいという著者の意図は、構成や叙述のまずさもあり、説得力を持って伝わっては来ませんでした。


2022年10月1日
から 久元喜造

饗庭 伸『平成都市計画史』


冒頭、著者は、成熟期を迎えた1968年(昭和43年)の都市計画法には「二つの方向への拡大に対する呪い」が仕込まれたと指摘します。
一つは、横方向への呪い―「線引き」と呼ばれる都市と農村の境界線です。
もう一つは、「容積率」で、縦方向への拡大の防御です。
そして「呪い」を解く方法として「広さ」と「設計」が用意され、大きな土地をまとめて、きちんとした開発計画を提出すれば、線引きや容積率という呪いは解くことができるようにしたと。

著者は、この「呪い」の解き方という視点を用いて、ポストバブルの平成期において、4つの仕掛けで、「都市計画の民主化」が進められたと指摘します。
規制緩和、地方分権、特区、コミュニティで、平成期にそれぞれがどのように進化していったかが詳しく説明されます

通読して正直、理解できたかどうかは微妙です。
その一つの理由が、著者が繰り返し使っている「法」と「制度」の意味です。
著者は、ドゥルーズにならい、法を「行為の制限」、制度を「行為の肯定的な規範」と定義します。
都市計画において「法」を「私権を制限するもの」と位置付けるのはわかるのですが、「制度」を「住民や地域社会、市場が内発的につくりだす規範、ローカルルールのようなもの」と説明されると、それが何なのかは私の理解を超えました。

最後に著者は、「人口の減少とあわせて制度がゆっくりと減り、少ない法だけが残っていくという変化、つまり民主主義から「原野」への変化」に言及します。
原野は「都市計画が不要になる世界」です。
象限を使った説明がなされ、「「よりよい原野」のありようが規定されていくのだろう」と結ばれますが、これも理解不能でした。


2022年9月19日
から 久元喜造

伊藤亜聖『デジタル化する新興国』


新興国で急速に進むデジタル化。
「この地殻変動から目をそらすな!」という本書の警告は的を射ており、我が国におけるデジタル化の遅れを改めて痛感する、ほろ苦い読後感が残りました。

本書では、OECDに加盟する38か国以外の国をすべて「新興国」として考察の対象とします。
最初に紹介されるのは、インドの「コネクティド・3輪バイク」、中国の遠隔医療、南アフリカの女性エンジニアです。
2010年代以降「デジタル化の時代」が本格的に到来したという認識に立ち、本論の前半では、新興国がデジタルの力を活用して課題を解決し、新たなサービスを育てている現状と今後の可能性について言及されます。
まず急速に進んでいるのが、プラットフォーム企業の登場によるリスク管理と信用の創出です。
中国やインドのみらず、アフリカでもケニアのM-PESAを筆頭に、銀行口座を持たないが携帯電話を持つ人々が、通信会社の口座内にお金を預ける形でモバイル・マネーが広がっています。
プラットフォームが介在することで、個人レベルで海外に仕事を発注することができるようになり、とりわけ南アジアではフリーランス経済が急速に広がっています。
ベンチャー企業による「下から」の課題解決も進んでいます。
エチオピアの医療産業向けサービス企業、南アフリカで精密農業とスマート漁業を進めるベンチャー企業など社会の課題解決に積極的な役割を果たしている事例が紹介されます。

デジタル化に伴うリスクについても詳しく触れられ、著者はこの点も踏まえながら、今後我が国は、新興国のデジタル社会にアンテナを張り、関わっていくべきだと提言します。
全くそのとおりだと感じました。


2022年9月14日
から 久元喜造

『マインド・コントロール』再読


6年前に読んだ、岡田尊司『マインドコントロール』(文春新書)(2016年9月3日のブログ)を読み直しました。
本書でまず紹介されるのは、1970年代から80年代にかけて頻発した宗教団体による「霊感商法」です。
真面目な学生や会社勤めのOLが突然姿を消し、教団の寮で共同生活を営み、高額の高麗大理石壺や高麗人参茶、印章の販売に従事したのでした。
なぜこのような「霊感商法」に付け込まれるのか、その手法が鮮やかに提示されていました。

改めて興味深かったのは、近代的なマインドコントロール技術がロシア革命から始まったという指摘です。
「パブロフの犬」で知られる生理学者のイワン・パブロフ。
彼の400頁にも及ぶ研究報告書を、レーニンはたった1日で読み終えたそうです。
レーニンは、条件付けに関するパブロフの研究を洗脳に利用する可能性を見出したのでした。
当局にとって都合の良い自白や情報提供を引き出す技術は、ソ連において開発、発展され、スターリンは政敵の抹殺のために徹底的に活用しました。
北朝鮮やハンガリーの公安当局によってどのように使われたのかも、詳しく記されます。

本書が最初に刊行されたのは2012年のことで、私が読んだのは、2016年の増補改訂版です。
「付記」で著者は、「状況は何一つ変わらないどころか、いっそう深刻化しているように思える」と記しています。
本書では、マインドコントロールが働きやすい環境とは、個人が周りとの接触を断ち、孤立化した状況であることが繰り返し指摘されます。
さらに6年が経過した今日、ネット社会の進化がそのような状況をどう変化させているかについて、改めて考える必要があると感じました。


2022年9月3日
から 久元喜造

松村淳『建築家の解体』


著者は、労働社会学、文化社会学専攻の社会学者です。
建築設計の実務経験があり、二級建築士の資格もお持ちで、従来から建築家を研究対象にして来られました。
前著「職業としての建築家の社会学 建築家として生きる」(晃洋書房;2021年)と併せて読むと、著者の一貫した関心は、「建築家が社会のためにどのような役割を果たすことができるのか」にあると感じました。

本書では建築家をめぐる状況の変化を「建築家の解体」と捉え、かつてのサクセスストーリーの変容を、具体的な建築家に即して振り返ります。
議論の前提として、建築家とはどのような存在なのかについて、プルデューの<ハビトゥス><界>の理論が応用され、建築家を育成する大学教育によって「支配的ハビトゥス」を体得していく過程が鮮やかに描かれます。

「建築家の解体」が進行した後に、現代の建築家の職能として登場するのが「街場の建築家」です。
空き家の増加は大きな社会課題ですが、それを資源として積極的に活用し、空き家をリノベーションして新しい「場所」をつくる人びとが増えてきました。
そのような「プレイヤー」と二人三脚で「場所」をつくっていくのが、「街場の建築家」です。
「クライアントと一緒に施工をしたり、企画を考えたり、自ら物件を購入し「場所」づくりを主導する」建築家も現れています。
街場の建築家は、「顔の見える専門家」として「場所」の再生に関わります。
ありがたいことに、神戸では、近年「街場の建築家」の活動が急速に活発化し、荒廃していた地域が次々に生まれ変わろうとしています。
このような動きがさらに広がることが、神戸の街の再生につながっていくと確信します。


2022年8月27日
から 久元喜造

本多静六博士の講演(1939年)


本多静六博士の講演録のコピーをいただきました。
タイトルは、「治水の根本策と神戸市背山に就て」。
神戸市が1938年(昭和13年)10月27日に主催した講演会の記録で、翌年1月に経済部山地課によって刊行されました。

1938年7月の阪神大水害は、神戸市を含む阪神地域に甚大な被害をもたらしました。
当時の神戸市は、我が国を代表する森林学者の本多博士に大水害の背景や原因について調査を依頼し、その成果を職員や専門家の間で共有しようとしたと思われます。
前にも触れましたが、本多博士は、明治期、荒廃した六甲山の植林・再生に貢献しました。(2014年8月26日のブログ
この講演の中でも、当時73歳の博士は、坪野平太郎市長から治山治水の調査設計を委嘱され、「明治35年度より43年度の9年間に650町歩の造林を完成させた」と振り返ります。
もともとは応急手段として最も造林しやすい黒松林を仕立て、次いでその間に広葉樹を仕立て、漸次第1期の広葉樹林に導く方針であったのに、「一度黒松林が成立するや忽ち安心してその一部には早くも乱伐行われ、一部には開墾が許可され、その他六甲山の大部分には連年山火事が入って焼野となり、加えるに至るところに観光道路等が開鑿されて民衆の林内を踏み荒らすことが多くなったために・・・ついに今回の惨害を来したものであります」と指摘しています。
「何ら人工の加わらなかった松林内にはほとんど山津波らしきものは認めなかった」という指摘は、乱開発に対する警鐘と感じます。

すでに日中戦争が泥沼化していた戦時下の神戸市政は、災害から市民を守るために懸命に取り組んだことが、この講演録からも窺えます。


2022年8月17日
から 久元喜造

中北浩爾『日本共産党』


日本共産党は、戦前、戦後を通じ、同じ名称で活動してきた政党です。
日本の近代史を立体的に理解したいという思いから拝読しました。

日本共産党は、1922年7月15日、東京・渋谷の高瀬清の部屋に、堺利彦、山川均ら8名が集まり、秘密裏に結成されました。
人事では、総務幹事に荒畑寒村、副総務幹事に山川と高津、国際幹事に堺が就任しました。
同年11月5日に始まったコミンテルン第4回大会に高瀬らが出席して正式結成を報告し、日本支部として承認を受けました。
本書では、結党以降の日本共産党の活動と外部環境について、コミンテルンなど国際共産主義運動との関わり、政府からの弾圧、学界、労働運動との関係などの観点から語られていきます。
著者は、日本共産党が非合法活動を強いられ、組織的な弱点も持っていたと指摘します。
それにも関わらず「不釣り合いなほどに大きな影響力を持った」のは、「知的権威を身にまとっていた」からでした。
共産党の主張は、プロレタリア文学などを通じて学生や知識人に浸透していきました。

1945年、戦争の終結により、府中刑務所内の予防拘禁所に囚われていた徳田球一、志賀義雄ら12名の共産主義者が釈放され、網走刑務所の宮本顕治、仙台刑務所の袴田里見、豊多摩刑務所の神山茂夫らが合流し、党の再建が進められます。
1945年12月1日から二日間、19年ぶりの党大会が約500名が参加して初めて公然と開催され、新たな綱領が決定されたほか、指導部の人事も決まりました。
翌年には、中国・延安から野坂参三が帰国します。
今日に至る日本共産党の綱領、活動方針、憲法への対応の変遷も、興味深いものでした。(文中敬称略)


2022年8月11日
から 久元喜造

平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』


劇作家・演出家、平田オリザさんの著書です。
まことに小さな国が、衰退期をむかえようとしている」という刺激的な一文で始まります。
違和感をつ持つ方もおられると思いますが、我が国が置かれている状況に幻想を抱くことなく、現実を真正面から見つめ、解決の糸口を見出そうとする真摯な姿勢が感じられます。

平田オリザさんの真骨頂は、ご自身の考え、姿勢を分かりやすく説くだけではなく、多くの人々を巻き込み、動きをつくり、実践して来られたことです。
本書では、瀬戸内・小豆島、但馬・豊岡、讃岐・善通寺、東北・女川などでの実践事例が紹介されます。
小豆島町の取り組みでは、世界的に知られる瀬戸内国際芸術祭と地域との関わりが紹介されます。
小豆島町ではIターンの移住者が増えているそうですが、その多くは、瀬戸内国際芸術祭をきっかけに小豆島を訪れ、縁が出来たといいます。

豊岡で紹介されるのは、「コウノトリの郷」づくり。
豊岡市は、コウノトリの復活とともに、農家と交渉を続け、無農薬・減農薬の田んぼを広げていきました。
コンクリートで固められた用水路を土に戻し、小動物が行き来しやすい環境もつくりました。
このような田んぼでつくられたお米は、「コウノトリ育むお米」としてブランド化に成功します。
さらに豊岡での画期的な取り組みが、城崎国際アートセンター です。
千人規模のコンベンションセンターが兵庫県から豊岡市に払い下げられました。
お荷物だった施設は、当時の中貝宗治市長の方針の下、平田オリザさんが加わる形で、滞在型アートセンターとして生まれ変わります。
我が国では試みられることがなかったアートインレジデンスが、ここに誕生したのでした。


2022年8月6日
から 久元喜造

楠木新『定年後の居場所』


著者の楠木新さんは、これまでも『定年後』(2018年4月18日のブログ)などの著書を著され、定年後の人生の過ごし方について数多くの提言をされてきました。
今回の著書は「中高年以降に居場所を確保するにはどうすればよいのか」がテーマです。
細かなデータに基づく分析が提示されるわけではありませんし、決め手になるような処方箋が示されるわけでもありません。
さまざまな話題が登場し、その話題の登場舞台も全国各地に及びます。
そのような中にあって、繰り返し語られるのが、著者が生まれ育った神戸のことです。

著者は、1954年、神戸市兵庫区の新開地界隈で生まれ、この地で成長されました。
ペンネームの「楠木」は、卒業された楠木中学から、「新」は、新開地の「新」だそうです。
ご実家の薬局は、新開地本通りから三本ほど東の通りで、「当時は酒屋や鮨屋、喫茶店、八百屋、貸本屋などの小さい商店が立ち並んだ場所で、周囲には商売人、職人アウトローの人たち多くてサラリーマンや公務員はいなかった」と振り返られます。
私も同じ年に、すぐ近くで生まれ、小学校5年まで過ごしましたので、著者が語る想い出は興味深いものでした。
こうして著者は、生まれ育った兵庫区の街を歩き、人の話に耳を傾けます。
「奇跡の画家」石井一男さんとの出会いもこうして生まれました。
このように振り返りながら、「生まれ育った土地は定年後の居場所として十分ありうる」との思いを吐露されます。
居場所とは、単に時間を過ごすことができる空間的な場所ではなく、過去の自分のシーンを参照しながら、今の自分と重ね合わせることができる場所なのかもしれないと、本書を読んで感じました。