久元 喜造ブログ

2023年7月23日
から 久元喜造

「神戸登山プロジェクト」始動!


7月22日、新幹線の新神戸駅に神戸登山支援拠点「トレイルステーション神戸」(愛称:トレコ)がオープンしました。
神戸登山プロジェクト」の第1弾です。
新神戸駅のすぐ近くには「布引の滝」があります。
山道を西に向かうと再度公園、東に向かうと摩耶山というロケーションです。
今回開設した「トレコ」では、登山用品レンタル、荷物預かりサービスのほか、登山情報の発信、ガイドツアーなどを行います。

神戸は港町であると同時に、六甲山系をはじめとした魅力的な「山」が数多くある大都市です。
もっと市民のみなさんに神戸の山に親しんでほしい、国内からも海外からも神戸を訪れ、神戸の山の魅力を楽しんでほしい ― そんな願いを込め、「神戸登山プロジェクト」をスタートさせました。

明治の開港後、神戸に住むようになった外国人が六甲山で登山を楽しむようになり、これが近代登山の発祥とも言われています。
そして登山の習慣は、神戸市民にも広がっていきました。
神戸の登山文化の象徴が、早朝登山を日課とする「毎日登山」です。
しかし、登山の愛好家は高齢者が主体で、若い世代、とくに若い女性の山への関心は近年とくに低くなっています。
また、実際に山に入ると、大雨によって登山道が通れなくなって荒廃したり、茶屋や保養所などが朽ち果て、案内板などが老朽化して放置されたりしている状況も見受けられます。
これらを改善し、多くの世代のみなさんに安心して登山を楽しんでもらえるよう、登山道の再生に取り組みます。

今回の「トレコ」の設置を皮切りに、登山者が一休みできる休憩スポットの整備、気軽にトイレ利用や休憩ができる「登山サポート店」の募集なども進めます。


2023年7月12日
から 久元喜造

上田早百合『上海灯蛾』


この小説を読み始めてすぐ、だいぶ前に読んだ 佐野眞一『阿片王・満州の夜と霧』 を思い起こしました。
主人公は、満州を舞台にアヘン密売を取り仕切り、関東軍など軍部に巨額の資金を提供した謎の人物、里見甫(1896 – 1965)です。
上海でも暗躍した里見は、『上海灯蛾』の中でも実名で登場します。
その里見ですら手を出すことができなかったのが、上海に君臨する青幇でした。

『阿片王』にも登場する青幇は、上海の裏世界を支配する組織で、その大きな収入源はアヘンでした。
『上海灯蛾』の主人公、吾郷次郎は神戸からジャズバンドとともに上海に渡り、雑貨店を営み始めます。
ある日、原田ユキヱと名乗る女性から極上の阿片が持ち込まれたことを契機に、青幇との接触が生まれます。
次郎は、青幇の楊直と義兄弟の契りを結び、中国人として生きていくことを決意します。
そして、アヘン栽培、取引にのめり込んでいきます。
上海のアヘンの商いは、すべて青幇が牛耳っていました。
素人の野心家が入り込める余地はなく、青幇に無断で何かを取引しようとすれば、即、死体となって黄浦江に浮くだけでした。
最高級のアヘン「最」を巡る戦いが始まり、次郎は重要な役割を演じます。
物語は1934年から始まり、盧溝橋事件、上海事変と、時代は戦争へと突き進んでいきました。
関東軍の将校も登場します。
日本の軍部も上海を支配する上で青幇の協力を得ることが不可欠で、虚々実々の駆け引き、凄まじい殺戮が繰り返されていきます。
1945年、日本の敗戦によって次郎の戦いも終焉を迎えます。
そして、終末に近づくにつれ、この小説が、壮大な愛の物語であったことを感じることができました。


2023年7月1日
から 久元喜造

SNSからの解放と日常性の回復


Instagramのアカウントを削除し、SNSから撤退して2か月余りになりました。(2023年5月6日のブログ
ネット上などで厳しい批判があることは承知していますが、これで良かったのではないかと感じています。
一番大きな理由は、安定した気分を回復できたことです。
SNSは、双方向のコミュニケーションツールですから、やはり反応を絶え間なく気にすることになります。
そしてスマホから逃れられない日常は、人間心理を不安定にします。
SNSと訣別したことによって、自分の精神状態が良くなったことを痛感しています。

改めて、ハンセン『スマホ脳』(2021年11月14日のブログ)で指摘されていた現象が、自分にも起きていたことを再認識しました。
SNSをやっていた頃の自分は、今より孤独で、集中力を欠き、ある種の猜疑心に苛まれていたのかも知れません。
今は、SNSの反応に気を取られることが少なくなり、逆に、実際に誰かと会って話を聞き、意見交換ができる機会が増えました。
集中力が増し、目の前の仕事のこと、将来の神戸のことをじっくりと考えることができるようになりました。
市内の各地に足を運び、市民のみなさんと意見交換をし、目の前の光景を前にして、そこに存在している課題にどのように向き合うのかを、じっくりと考える時間ができるようになりました。

私は今、何となくですが、SNSに時間を使っていた頃よりも、充実した時間を送り、もしかしたら良い仕事環境を獲得することができたのではないかと感じています。
素敵な光景をSNS でアップできないのは残念ですが、ネットを有効に活用しながら、当たり前の日常を大切にしていきたいと思います。


2023年6月25日
から 久元喜造

チャットGPTの試行開始


神戸市は、チャットGPTに関する条例を全国で初めて制定し、業務での利用の試行を開始しました。
このような神戸市の対応については、逆の方向からの二つの批判があるように感じます。
ひとつは、がむしゃらに利用を進めようとしているとの批判です。
例えば、ある在阪民放テレビは、私の記者会見を捉え、「久元市長は利用に前のめりです」と批判しました。
もう一つは、全国で初めて条例を制定したことを受け、役所的発想から利用をやみくもに規制しようとしているとの批判です。

神戸市は、利用に前のめりでも、規制優先でもありません。
チャットGPTには、仕事を効率化し、職員の想像力を引き出すなど大きな利用可能性があるとともに、虚偽あるいは不正確な情報の拡散といった大きなリスクがあります。
この突然現れたテクノロジーにはまだまだ未知の部分があり、今後も進化・変容を遂げていくことでしょう。
そうであれば、リスクを最小限に抑えた上で、限られた職員がまずは使ってみることが大事です。
一方、職員がチャットGPTに個人情報を入力し、それがネット空間で拡大していくことは、市民の権利を侵害するおそれがあります。
そこで、関係条例を改正し、職員による個人情報などの入力を禁止することにしました。

6月22日の 記者会見 を受け、翌日から、公募に応じた112名の職員による試行を開始しました。
チャットGPTは今さまざまな分野で大きな関心が寄せられていますから、職務の公正を阻害することがないように配慮しながら、開かれた議論を行い、利活用を進めていくことが大切です。
このような見地から、市役所の中で職員が試行する様子も公開することにしました。


2023年6月17日
から 久元喜造

1930年代の神戸・ジャズの街


神戸ゆかりの小説家、上田早夕里さんの『上海灯蛾』を読んでいます。
主人公の次郎は、兵庫県の山間部でも特に寒い地方で生まれ育ちました。
こんな山間僻地にはもう住みたくない。
次郎は書置きを残して故郷を後にしました。
行先は神戸と決めていました。
どこかで働き口を探し、いつか神戸から外国に旅立つつもりでした。
神戸に辿り着くと、無名のジャズバンドに雑用係としてもぐりこみます。
バンドマンが若さゆえの無謀と情熱で「上海に渡って成功しよう」と言い出したとき、次郎は土下座までして「一緒に連れて行ってください」と頼み込みます。
1930年代前半のことだったと思われます。

神戸とジャズの歴史」の中の安田英俊氏の解説によれば、我が国で初めて本格的なジャズ演奏が行われたのは、1923年(大正12年)のことでした。
宝塚少女歌劇団のヴァイオリン奏者、井田一郎がプロのジャズバンド「ラフイングスターズ」を結成し、神戸の旧居留地にあったオリエンタルホテルでジャズを演奏したのが最初とされます。
同年に起きた関東大震災以降、文化の中心が関東から関西に移り、神戸、大阪には多くのダンスホールや劇場が出来、ジャズが盛んに演奏されていました。
日中戦争が始まると、敵性音楽であるジャズは演奏されなくなり、ジャズの演奏家たちは日本を去って上海へと移り住みます。

『上海灯蛾』ではこのような時代考証の上に、次郎が神戸から上海に渡るシーンが描かれたものと思われます。
当時の上海は、「東洋のパリ」とも「魔都」とも呼ばれた魑魅魍魎の世界でした。
次郎は音感に秀で、奏者の実力を見抜くことができました。
神戸での経験が上海でも生かされていきました。

 


2023年6月6日
から 久元喜造

テッソン『シベリアの森のなかで』


帯にはこう記されています。
「冒険家で作家のテッソンがバイカル湖畔の小屋で半年を過ごした日記。孤独と内省のなかで人生の豊かさを見つめ直す、現代版『森の生活』」
著者は、本書の中でひたすら自身との哲学的問答を繰り返す訳ではありません。
日記の中でかなりの部分を占めているのが、読書の記録と感想です。
冒頭「シベリアの森での半年間の滞在に備えてパリでじっくり選んだ理想の本リスト」が示されます。
D・H・ロレンス、キルケゴール、カミュなどのほか三島由紀夫の『金閣寺』もあります。
「鋼の冷たさを感じたいなら三島由紀夫を読めばいい」。

日記ではバイカル湖畔や森の自然の佇まい、生き物たちとの出会いが生き生きと描かれます。
シジュウカラが窓ガラスをコツコツと叩き、夜になると小屋の周りには、狐やミンク、オオカミ、オオヤマネコがうろつきます。
「動物の足跡は森の言葉だ」。
テッソンは、湖で仕掛けをつくってアメマスを獲り、渓流でイワナを釣ります。

森林官や漁師などとの交流も記されます。
テッソンは、彼らの家や小屋を訪れ、また彼らもテッソンの家を訪れ、ウォッカに興じます。
湖で獲れた魚が料理されて供されます。
ヘラジカは内臓も料理されて、愛犬たちに与えられます。
イルクーツクの実業家は、法令の抜け穴を利用して巨大なアウトドアパーティー用の建物を建築します。
この辺で「将軍」と呼ばれている彼は、自然保護区の森林官たちに贈り物をばらまいています。

「孤独は思考を生み出してくれる。というのも、ここでは自分自身としか会話できないから」
「孤独はあらゆるお喋りを洗い流してくれ、自分自身を探索することを可能にしてくれる」
含蓄のある言葉です。


2023年5月13日
から 久元喜造

牧原出編著『「2030年日本』のストーリー


「手が届きそうな近い将来」がどんな時代になるのか、議論が展開されます。
政治学者の牧原出先生を中心に、安田洋祐、西田亮介、稲泉連、村井良太、饗庭伸の各氏が論陣を張ります。
政治、経済、メディア、社会学、都市計画など分野横断的な考察が行われ、コメントが記されます。
「ヒストリー」という切り口の第Ⅱ部は、東京パラリンピックと佐藤栄作政権が取り上げられます。
語り手は、政治史家の村井良太氏です。
当時を思い出しながら読みました。
「共通の歴史」が「人々の協働と共感を支える基盤となる」という指摘には共感を覚えます。

実際の街づくりと格闘している自分にとり、現実感を伴って読んだのが饗庭伸氏の「退場する都市空間と「国土の身体化」」でした。
明治維新からの長い間、増えた人口がつねに都市に押し寄せ、都市の側は追い立てられるようにその空間を増やしていきました。
つまり人口が先にあり、空間がそれを追いかけるという歴史でした。
ところが、人口が減り始めると人口と空間の関係が反転します。
人口が先に減少して空間が残されていきます。
大半の未来都市では、現在の都市の空間のあちこちから少しずつ人が退場し、空いた空間があちこちに散在するようになります。
小さな穴があいていくように都市が縮小する「スポンジ化」です。
饗庭氏はこのような退場が起きている空間を「前自然」と呼び、はっきりとした意志を持って臨めば、豊かな資源を獲得することができると指摘します。
大事なことは、「経験の檻」に囚われないことだと。
空き家の活用策として提示されるのが決まってシェアハウスとカフェだという指摘は、いささか耳が痛いところです。
斬新な発想が求められています。


2023年5月6日
から 久元喜造

SNSとの訣別


Twitter
FacebookInstagramを始めたのは、情報発信が弱いと言われて久しい神戸市に、トップとして少しでも役に立ちたいと思ったからでした。
また、双方向のコミュニケーションにも関心がありました。
結果として、自分には合わないということがよくわかりました。
先月、Instagramのアカウントも削除し、SNSからは撤退することにしました。

厳しい批判があることは知っています。
ネットが全盛の時代に背を向けるのかと。
それでもやめることにした理由は、時間がとられることです。
軽い気持ちで投稿したところ、予期せぬ反発や反応があり、自分なりに考えた短い文章を練り上げる必要が出てきました。
また、人間ですから反応も気になるところで、注意力が散漫になっていくように感じることが増えました。
人間の時間は一日24時間しかなく、市長も同じです。
最終的に自分の判断で決めなければならないとき、思索の時間も必要です。
思索の時間が浸食され、集中力が減退していると感じられるようになっていったのです。

これからは、ネットの世界にも注意を払いながら、現実の世界を大事にしたいと思います。
今まで以上に自分で街を歩き、街で起きていることを自分の目で確かめ、仕事に活かしていきます。
幸い、商店街などでは話しかけられることも多く、街の中で直接聞く市民のみなさんの声には現実感があります。
地域社会や地方自治体は、現実の生活や街のありようと深く関わります。
それ自体、リアルな存在です。
私は、ネット空間で存在感を求めるよりも、リアルな世界と真正面から向き合い、そこに自分の力を発揮できる場をつくっていきたいと思います。


2023年5月1日
から 久元喜造

牧原出『田中耕太郎』


10年を超えて最高裁判所長官を務めた田中耕太郎の経歴は、実に多彩です。
東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省しますが、すぐに大学に戻り、助教授・教授として学部、大学全体の運営にも関わりました。
1930年代になると、大学は嵐の時代を迎えます。
京大で起きた滝川事件の後、東大にも軍部、文部省などからの圧力が強まり、天皇機関説事件が起きます。
美濃部達吉はすでに退官していましたが、後継の憲法学者・宮沢俊義にも糾弾の声が上がります。
長与又郎総長など東大の当局は、粘り強く政府と交渉し、内閣も「学府の自治」を尊重しつつ、事態の鎮静化を図りました。
法学部長となった田中は、荒木貞夫文相との対峙、平賀粛学問題の収拾などに当たりました。
当時の法学部・経済学部の教授間の対立、人間関係も描かれます。
戦争末期、法学部と徐々に距離を取るようになる田中は、学外で異分野の知識人と戦後を見据えた会合を重ねるようになっていきます。

終戦後、田中は活動の場を学外に移します。
1945年9月、田中は文部省学校教育局長に就任、翌年の第1次吉田茂内閣で文相に就き、教育基本法の制定、6・3制の導入の陣頭指揮を執りました。
貴族院議員から議院議員全国区に立候補して当選、既成政党とは一線を画し緑風会に属して活動しました。
1950年3月、田中は第2代最高裁判所長官に就任、裁判制度の確立と司法権の独立に尽力しました。
田中の思想についても、多角的に触れられていきます。
大学、政治・行政、裁判所、国際司法という幅広い分野で活躍した田中の足跡から、戦争の時代と戦後混乱期を生きた巨人の苦悩と矜持が伝わってきて、言い知れぬ感動を覚えました。


2023年4月23日
から 久元喜造

神戸高専の未来

神戸市立工業高等専門学校の前身、神戸市立六甲工業高等専門学校が設立されたのは、1963 (昭和38年)のことでした。
1966(昭和41年)に現在の神戸高専となり、1990年(平成2年)に垂水区舞子台から研究学園都市に移転し、今日に至っています。
神戸高専は、都市自治体が設置する我が国で唯一の高専です。
本科(5年)と専攻科(2年)に、約1300名が学んでいます。
これまで、産業界、行政、学界に多数の優れた専門人材を送り出してきました。
しかし、テクノロジーの急速な進歩や経済社会のグローバル化が進む中で、現在の高専のあり方で良いのかどうかについては以前から問題意識を持っていました。
そこで、有識者から構成される検討委員会を設置し、議論していただいた結果、独立行政法人化の道を選択することにしました。
所要の手続きを経て、この4月から神戸市公立大学法人が神戸市外国語大学と神戸高専を運営することとなりました。
法人の理事長には、前神戸大学学長の武田廣先生が就任されました。

神戸高専はこれまでも英語教育に力を入れてきましたが、神戸外大の先生方の参画により、語学教育などがさらに充実し、グローバル社会で活躍できる人材の育成が進むことが期待されます。
学生間の交流や合同行事の開催を通じた国際性の醸成も進むことでしょう。
残念ながら、高専の施設や設備・機器は老朽化・陳腐化しており、経済界や学界の知識・経験もいただきながら、教育課程、施設、設備機器の充実を進めていかなければなりません。
神戸市は、神戸市公立大学法人の設立自治体として、神戸高専と神戸外大の教育・研究環境の充実・改善に全力で取り組んでいきます。