久元 喜造ブログ

2013年8月22日
から 久元喜造

母校・神戸市立小部小学校で。

北区鈴蘭台にある、神戸市立小部小学校の同窓会が開かれ、出席させていただきました。
小部小学校は、明治7年(1874年)に創立された、由緒ある小学校です。来年、創立140周年を迎えます。
藤田操校長先生から、小部小学校の歴史や近況、子どもたちの作文が紹介されました。
興味深く、心がこもった、簡潔な報告でした。女性の校長は、藤田操先生が創立以来はじめてだそうです。

同窓会のあと、懇談会が開かれ、私から、在学中の思い出や神戸市の課題、神戸への想いについて、お話しさせていただきました。

130821-1
私は、ちょうどオリンピックの年、昭和39年(1964年)に、川池小学校から小部小学校に転校し、昭和41年(1966年)に卒業しました。
小部小学校に在学したのは、1年半足らずでしたが、当時の6年2組の子どもは、ほぼ全員が、箕谷の山田中学校に進んだので、私にとっては、小部小学校、山田中学校の4年半は、一体となった、懐かしい思い出になっています。

130821-2

当時は、まだ、木造の校舎、木造の音楽室があったこと、あちこちに池があり、鮒を釣ったり、泳いだりしたことなどをお話ししました。
「川池小学校と小部小学校では、校風は違いましたか?」と尋ねられましたので、「全然違いました」と答えました。
確かに、同じ兵庫区(当時は、まだ北区はできていませんでした。)でも、こんなに違うのかと思うほど、学校の雰囲気は違っていました。

人口がどんどん増え、プレハブ校舎を建てて対応しなければならず、神戸電鉄は満員で、積み残しができるほど混雑していた時代は、もう半世紀も昔のことになりました。
地域社会のありようが大きく変わった今、鈴蘭台など北区に何が求められているのかなどについても、簡単にお話しさせていただきました。

130821-3

半世紀前を思い出しながら、母校をあとにしました。

 

 


2013年8月21日
から 久元喜造

母のこと。


私は、母方の家に生まれました。父は婿養子でした。
母の祖父母は、私を自分の手元に置くことを望み、私は、祖父母と母屋で、弟は、両親と離れで、育てられました。
祖父は、孫の私に、自分の若いころの名前「喜造」をつけ、かわいがってくれました。
小学校5年の時、両親とわれわれ兄弟は、祖父母と離縁することになり、鈴蘭台に引っ越しました。

山田中学校の2年生のとき、祖父が亡くなりました。
その直後、母は、自分がもらい子だったことを私に告げました。
祖父母とは血がつながっていないなんて、夢にも思わなかったので、私は大変驚きました。

母は、昔のことを語ってくれました。

自分は、広島県にある瀬戸内の離島に生まれた。
ものごころがつくか、つかないとき、神戸に連れて来られ、暗い部屋に入れられて、ある人から言われた。
「きょうから、この二人が、おとうさんと、おかあさんやで。」

自分は勉強がよくできた。
小学校の校長先生が家に来てくれて、「この子を、高等女学校に進学させてやってほしい」と頼んでくれたが、両親は、絶対に認めてくれなかった・・・

先日、お好み焼きやさんで、一杯やっていたら、テレビで、映画『24の瞳』を放映していました。
ちょうど、島の岬の分教場で教える大石先生の教え子の一人が、「口減らし」のために、大阪に奉公に出されるシーンが映されていました。
母親は、奉公ではなく、もらい子だったのですが、離島から何らかの事情で神戸に出されることになった母親も、この女の子と同じように、涙にくれながら、生まれ育った島を離れたのだろうか、と想像しました。

いま両親は、追谷墓地の祖父母の墓から、かなり離れた場所に眠っています。


2013年8月20日
から 久元喜造

岩岡でも深刻化するイノシシの被害

昨日は、西区の西神工業団地の中を回り、ごあいさつさせていただいた後、押部谷の 六甲のめぐみ にお邪魔しました。
地元でとれた農畜産物を販売する、国内で最大級の直売施設です。生産者のみなさんと意見交換をさせていただきました。

続いて、岩岡町へ。
岩岡町では、岩岡工業会のみなさんにご挨拶をさせていただいた後、JA兵庫六甲岩岡支店にお邪魔しました。。
JA兵庫六甲岩岡支店には、農協市場館ピカリショップ があります。六甲のめぐみ  よりも先に開設された、直売施設です。
30歳代から70歳代までの、元気な女性生産者のみなさんによって運営されています。
短時間でしたが、意見交換をさせていただきました。

農業振興のほか、交通問題、保育所などについて意見が出されましたが、イノシシやアライグマが出没し、ここ岩岡でもかなり被害が出ている状況が報告されました。
イノシシによる被害が目立ってきたのは、ここ数年のことのようです。
イネや野菜、果物などが幅広く被害を受けているとのことでした。
イノシシが出没するのは、ポンプ池と呼ばれる池の近くの山林だというお話を聞きましたので、さっそく出かけることにしました。

ポンプ池と呼ばれる池は、池の水が山田川から送られ、ポンプアップして池に送られていることから、こう呼ばれるのだそうです。山田川の吞吐ダムから東播用水によって送られてきた水が、勢いよく吹き出ていました。
13081902

イノシシは、池のそばにある林に棲みついているようで、近くの畑は、柵で囲まれていました。

130819-1

有害鳥獣による被害は、被害額がかなりの額にのぼっているということのほかに、丹精込めてつくった農作物が、ある日、見るも無残に荒らされて目茶目茶になるという、精神的なショックも大きいと思います。

やはり、本腰を入れた取り組みが求められていると感じました。


2013年8月19日
から 久元喜造

川田稔『昭和陸軍の軌跡』

きょうで、3回シリーズ「久元喜造・対話フォーラム」を終えました。
最終回のきょうは、市役所改革についてお話しし、ご質問やご意見をいただき、ありがたかったです。

大きな官僚組織の改革はなかなか大変です。
失敗の歴史に学ぶことも必要です。そういう意味で、巨大官僚組織であった旧陸軍が、どのようにして戦争に突き進み、国民を破滅に追いやっていったのか、そのあとをたどることは、意味があると思います。

どちらかと言えば、旧陸軍は、現場の将校たちが暴走を抑えることができず、ずるずると泥沼の日中戦争に踏み込み、明確な展望を持たないままに、アメリカとの全面戦争に踏み切ることになった、という見方が支配的だったように思われます。

これに対し、川田稔『昭和陸軍の軌跡』(中公新書)は、異なった視点から戦争への道を描いています。

kawata

昭和陸軍は、それなりに明確な戦争への構想を持っていたというのです。
昭和陸軍の戦争への構想を描き、その実現のために中心的な役割を果たしたのが、陸軍省軍務局長で暗殺された永田鉄山でした。

彼は、第一次世界大戦をはさんで、約6年間、ヨーロッパに滞在、ヨーロッパの列強がどのように戦争を戦ったのかをつぶさに観察しました。
そして、近代の戦争が、「国家社会の各方面」にわたって戦争のために動員する「国家総動員」を行う国家総力戦になったと見ていました。

そして、平時における国家総動員と資源確保のためのプログラムを描くのです。
国家総動員は、国民動員、産業動員、財政動員、精神動員などから構成されます。国民動員の手段として、女性労働力の利用のため、託児所設立の必要性に言及されているのも興味深いです。

1935年8月12日、永田鉄山が陸軍省軍務局長室で相沢三郎中佐に刺殺された後も、永田の構想は生き続け、日本は国家総動員体制に移行していきます。

陸軍内部の権力闘争は、熾烈でした。
陸軍内部の複雑な派閥や人間関係、熾烈な権力闘争の様子もリアルに描かれています。
重要な方針決定の経過や背景が、克明に描かれており、いろいろな意味で、示唆に富む内容になっています。

 

 


2013年8月18日
から 久元喜造

イシガメは神戸でも生き続けてほしい。

神戸市立須磨水族園 では、淡水ガメの研究が進められています。
淡水ガメ専門の記録雑誌「亀楽」 を見ると、継続的で、息の長い調査と研究が行われています。
この研究姿勢や研究成果は、高く評価されるべきだと思います。

神戸でも、ふつうに見られるカメは、外来種のミシシッピアカミミガメばかりになってしまいました。
頭の側部が赤いため、こう呼ばれています。
原産地は、北アメリカ。日本では、子ガメはミドリガメと呼ばれ、大量に輸入されてペットとして売られています。
子ガメのときは可愛いのですが、大きくなると、もてあますようになって、川や池に捨てられ、繁殖しているのです。

akamimi

アカミミガメが日本に侵入し始めてから、すでに半世紀が経ちました。たかが、カメの世界の話ではないかと思われるかも知れません。
しかし、日本の河川や池沼にアカミミガメしか生息せず、日本固有のイシガメがいなくなることは、たいへん憂慮すべき事態ではないかと思います。

その理由について、 神戸市立須磨海浜水族園の谷口真理さん、亀崎直樹さんは、次のように説明されています。

「アカミミガメの原産国である北アメリカには、カメを捕食するミシシッピワニが生息し、それがアカミミガメの数を抑えている。
ところが、日本にワニのような強力なカメの捕食者はいない。その結果、アカミミガメは増える。
また、アカミミガメはワニの捕食に対する戦略をとる必要がある。その結果、アカミミガメの性格は荒くなり、体も大きく、一回に産む卵の数も多くなったと考えられる。(中略)
一方、日本にはワニのような捕食者がいないため、そこに生息するイシガメの性格はおとなしく、繁殖能力もアカミミガメに比べると低いと考えられる。
つまり、北アメリカの淡水の生態系は、ワニなどの強力な捕食者に対する戦略を獲得した生物によって構成され、全体的に乱暴な生物が多くなる。
それに対し、強力な捕食者のいない日本の淡水生態系は、穏やかな生物で構成される傾向がある。急速にそれらが増殖するのは当然の結果といえる。
繁殖能力の高いアカミミガメと低いイシガメが共に生存していると、たとえ競争しなくてもアカミミガメの割合がどんどん増加することになる。今後このままアカミミガメを放置し続ければ、ますます分布が拡大し、日本固有のやさしい生態系は倒壊すると考えている。」

やはり、生態系全体に影響する深刻な事態と捉えるべきではないでしょうか。
このことは、日本の「やさしい生態系」が危機にさらされていることを意味します。

神戸でも、固有種であるイシガメは、ずっと生き続けていってほしいと願います。

ishigame
それは、悠久の年月をかけて形成されてきた神戸の自然が、将来の世代に引き継がれていくかどうかに関わります。
神戸市立須磨水族園 の調査研究を踏まえ、近い将来、有効な対策がとられるべきです。

 

 


2013年8月17日
から 久元喜造

手応えを感じています。

きのうの16日は、垂水駅前で、朝の7時から、駅立ちをしました。
お盆の翌日で、いつもよりは、人通りは少なかったようですが、ふだん考えていることを、お話しさせていただきました。
神戸市会、兵庫県会の議員のみなさんが、応援にかけつけてくださいました。ありがたいことです。

130816

私の政治活動は、まだ、2月あまりに過ぎません。
ぜんぜん、様になっていないかもしれませんが、愚直に、まっすぐに、神戸のこと、神戸市政のことについて、訴えをさせていただいています。

おかげさまで、少しずつ、手応えを感じています。

予想以上に、チラシを受け取っていただいていて、用意したチラシが全部なくなり、みんなで思わず歓声を上げたこともありました。
また、初めてお会いする方が、近づいてこられて握手をしてくださったり、手を振ってくださる方もいらっしゃいます。
クラクションを鳴らし、車の中から、手で合図してくださることもありました。

チラシを配ってくれている仲間に、私について、
「あの人だれ?どんな人?」
と、尋ねてくださる方もおられるようです。
私のことに関心を持ってくださる方が増えていることは、とてもありがたいことです。

きょうも、三宮センター街近くで、辻立ちをしました。
三宮の再開発のこと、そして、神戸の元気をどう取り戻すのかについて、また、神戸の街のにぎわいについて、訴えました。


2013年8月16日
から 久元喜造

選挙におけるネガティブキャンペーン

我が国は、戦後、アメリカの影響を受けてきました。アメリカで起きていることは、すぐに日本でも起きると言われます。
そのような中にあって、アメリカでひろく行われているけれども、我が国では起きていない事象もあります。
選挙時におけるネガティブキャンペーンも、そのひとつかもしれません。アメリカの選挙では、テレビを使ったネガティブ広告が大量に流されます。
下の Youtube は、2012年の大統領選で共和党の予備選挙が行われたときに、ロン・ポール陣営がニュート・ギングリッチ議員を攻撃したテレビ広告です。

このテレビ広告では、
・ギングリッチ議員が連邦下院議長になった1994年に67.5万ドルであった資産が、4年後に最大750万ドルに達し、議長時代に巨額の富を得た。
・議長時代に84回にわたって、倫理上の問題点を指摘された。
・破たん直前の連邦住宅金融抵当公庫(通称「Freddie Mac」)から最大180万ドルの献金を受けた。
・民主党オバマ大統領の政策である、強制医療保険(health insurance mandate)に賛成した。
・講演で6万ドルの報酬を得た。
といった点を挙げ、攻撃を加えています。
そして、このテレビ広告は、”Serial hypocrisy”(度重なる偽善行為)という言葉で締めくくられます。

もっとひどいCMもあるようで、これでも比較的穏やかなのかも知れませんが、日本ではまず行われないでしょう。

我が国で、このようなネガティブ広告が行われないのは、政治資金制度の違いがあるのかも知れませんが、相手候補に対する誹謗中傷が日本人の感性に合わないからかも知れません。
このことは、日本人として誇ってもよいことではないでしょうか。

ただ、懸念材料もあります。
ネット上での誹謗中傷です。テレビのCMほど誰もが目にするわけではありませんが、確実に広がっているのは残念です。

同時に、そのような誹謗中傷は、やはり日本人の感性に合わないのではないでしょうか。
誹謗中傷に頼ってばかりいる陣営は、結局は、心ある有権者から見放されていくような気がします。


2013年8月15日
から 久元喜造

むき出しの国際競争の中に生きる。

きょうは、終戦の日。
68年前のきょう、日本は戦争に負け、同時に、まったくそれまでとは異なるやり方で、国際社会の中で生きていかなければならなくなりました。

歳月が流れ、国際社会の中で、もはや企業は、国の枠を超えて行動する時代になりました。とっくの昔からそうなっています。
会社の登記はケイマン諸島、経営陣は香港かシンガポール、工場はベトナムにあり、サポートは東欧のコールセンターが対応する ― そんな企業も増えてきました。

現代のグローバル企業は、もはや、国という枠組みにしがみついてはいません。そのような企業において、自治体という単位が、企業経営の中でどこまで意識されているのか、必ずしもよくわかりません。

そんな中にあって、個人は、企業からも、国家からも、ましてや自治体からも何の助けも受けられないのだから、裸のまま世界に放り出されることを覚悟しなければならず、グローバル世界のむきだしの競争の中で生き抜いていくことが求められるという主張があります。

むき出しの国際競争に勝ち抜いていくためには、英語を学べ、留学せよ、海外で働く経験をせよ、専門性を身につけよ、といったアドバイスが、人材育成コンサルタントのみなさんなどから、盛んに行われています。
大事なのことは、「どこに会社や組織に所属しているのか」ではなく、ひとりで何ができるかだ、とも指摘されます。

わからないではありません。
英語を学ぶことも、留学することも、海外で働く経験を持つことも、専門性を身につけることも、大切でしょう。それらは、意味があることです。
しかし、そのことが、人は、何かに帰属せず、どこかに係留されることなく、ただ、ひとりで生きて行くことのみが真理なのだという主張であるなら、そこには、何か、とても寒々とした風景があるような気がします。

グローバル世界で軽やかに生きていけたとしても、そこで生き抜いて行くことができる語学や処世術や専門性を身につけたとしても、はっきりしていることは、人は、ひとりで生きていくことはできないということです。

グローバルな世界で軽やかに生きていける人も、そう望みながら、そうは行かなかった人も、はじめからそんな世界に生きることを望まなかった人も、ひとしく受け入れることができるような地域社会。
甘いと言われるかも知れませんが、 私は、そのような地域社会を理想としたいと思います。


2013年8月14日
から 久元喜造

成熟都市の肖像

8月13のブログ でも取り上げましたが、神戸もまもなく、人口が減少する時代に入ります。
すでに入っているかもしれません。
人口が減ることは寂しいことですが、神戸に限らず、我が国が受け入れていかなければならない「現実」でもあります。

人口が減ることは、悪いことでしょうか。
人口が増えていた時代、とくに、神戸などの大都市で、人口が急増していた昭和40年代は、人口急増対策は、本当にたいへんでした。
学校はすし詰めで、小中学校の建設を急ぎ、プレハブ教室を急ごしらえでつくり、何とか子どもを受け入れることができた時代でした。 プレハブ教室は、夏は暑く、冬は寒く、寒い季節、すきま風が入り込んできて、かじかんだ手をこすり合わせて暖めながら、ノートをとったものでした。
団地開発をいくら急いでも、下水道の整備は間に合わず、汚水は川に垂れ流しで、かつての渓流は、合成洗剤の白い泡が風に乗って舞い上がっていたものです。
いろいろなひずみがあちこちに出て、それらの解消には、時間をかけて取り組まなければなりませんでした。

人口が減少する時代も大変ですが、振り返れば、大変だったのは、このように、人口急増時代も同じだったと思います。
違うのは、大変さの内容です。

人口減少時代は、決して、人口急増時代と比べて、暗い時代ではありません。
何より、人口急増期とは異なり、あくせくすることなく、ゆったりと人生や日々の生活を楽しむことができる時代がやってきたのです。
高齢者が増え、確かに、高齢者福祉などいろいろな対策を講じなければなりません。しかし、何より、豊かな人生経験をお持ちの方がたくさんおられることは、地域社会の財産ではないでしょうか。
豊かな経験をお持ちの高齢者のみなさんが積極的に社会に関わっていただくことにより、私たちの社会は、深みを増していくことができる可能性を秘めています。
そして、社会が成熟していくとき、文化が爛熟して、花開くことは、歴史の教えるところです。

神戸は、成熟都市の段階に入りつつあります。
成熟都市として、どのような都市イメージを描くかは、私たちの想像力、そして、どのような街にするのかという、私たちの意欲にかかっています。

 


2013年8月13日
から 久元喜造

「住み続ける都市」としての神戸。

きのうは、三宮で、第2回の対話フォーラムを開催しました。
第1回対話フォーラム を上回る、多数のみなさんに参加していただき、ありがたく感じています。
前回は、私の話とディスカッションが、半々くらいだったのですが、今回は、少し私の話が長くなり、対話の時間は、30分ほどになってしまいました。
質問や意見が途切れることがなく、8時になり、打ち切りにさせていただきましたが、もっといろいろなご意見をいただいた方がよかったのに、と反省しています。

きょうは、神戸と、大阪、京都、神戸、福岡の年齢別人口動向を比較し、神戸の都市としての風貌、そして、特徴を浮き彫りにさせることからスタートしました。

神戸は、指定都市の中で、2番目に大学の数が多く、どの世代の時系列移動の動向を見ても、20才から24才までの年齢層が一番多くなっています。
京都は、さらに20才から24才までの年齢層のピークが突出しているのですが、どの年齢層をとっても、大学を卒業した後、京都に住み続ける人口は減っていくのに対し、神戸は、微減かほぼ横ばいです。
神戸は、京都に比べ、「住み続ける都市」として、選ばれていることがわかります。
京都が、大学と観光で強みを発揮しているのに対し、神戸は、大学の集積があると同時に、住みやすい都市としての評価を受けているのです。

このほか、神戸は、横浜に比べ、近くの巨大都市に通勤する人の割合が際立って低いことも報告しました。
神戸に住み、神戸で働き、神戸でショッピングを楽しみ、神戸で遊ぶ、という神戸っ子が多数を占めていることは、都市としての強みかもしれません。
この強みをどう生かすのかが問われます。

その一方で、大阪などに通勤している方が、神戸に、そして、神戸市政に何を望むのかについても、よくご意見をお聞きすることが大切です。
多角的なアプローチで、神戸の元気、にぎわいについて、さらに深く考え、行動していきたいと思います。