久元 喜造ブログ

母のこと。


私は、母方の家に生まれました。父は婿養子でした。
母の祖父母は、私を自分の手元に置くことを望み、私は、祖父母と母屋で、弟は、両親と離れで、育てられました。
祖父は、孫の私に、自分の若いころの名前「喜造」をつけ、かわいがってくれました。
小学校5年の時、両親とわれわれ兄弟は、祖父母と離縁することになり、鈴蘭台に引っ越しました。

山田中学校の2年生のとき、祖父が亡くなりました。
その直後、母は、自分がもらい子だったことを私に告げました。
祖父母とは血がつながっていないなんて、夢にも思わなかったので、私は大変驚きました。

母は、昔のことを語ってくれました。

自分は、広島県にある瀬戸内の離島に生まれた。
ものごころがつくか、つかないとき、神戸に連れて来られ、暗い部屋に入れられて、ある人から言われた。
「きょうから、この二人が、おとうさんと、おかあさんやで。」

自分は勉強がよくできた。
小学校の校長先生が家に来てくれて、「この子を、高等女学校に進学させてやってほしい」と頼んでくれたが、両親は、絶対に認めてくれなかった・・・

先日、お好み焼きやさんで、一杯やっていたら、テレビで、映画『24の瞳』を放映していました。
ちょうど、島の岬の分教場で教える大石先生の教え子の一人が、「口減らし」のために、大阪に奉公に出されるシーンが映されていました。
母親は、奉公ではなく、もらい子だったのですが、離島から何らかの事情で神戸に出されることになった母親も、この女の子と同じように、涙にくれながら、生まれ育った島を離れたのだろうか、と想像しました。

いま両親は、追谷墓地の祖父母の墓から、かなり離れた場所に眠っています。