久元 喜造ブログ

川田稔『昭和陸軍の軌跡』

きょうで、3回シリーズ「久元喜造・対話フォーラム」を終えました。
最終回のきょうは、市役所改革についてお話しし、ご質問やご意見をいただき、ありがたかったです。

大きな官僚組織の改革はなかなか大変です。
失敗の歴史に学ぶことも必要です。そういう意味で、巨大官僚組織であった旧陸軍が、どのようにして戦争に突き進み、国民を破滅に追いやっていったのか、そのあとをたどることは、意味があると思います。

どちらかと言えば、旧陸軍は、現場の将校たちが暴走を抑えることができず、ずるずると泥沼の日中戦争に踏み込み、明確な展望を持たないままに、アメリカとの全面戦争に踏み切ることになった、という見方が支配的だったように思われます。

これに対し、川田稔『昭和陸軍の軌跡』(中公新書)は、異なった視点から戦争への道を描いています。

kawata

昭和陸軍は、それなりに明確な戦争への構想を持っていたというのです。
昭和陸軍の戦争への構想を描き、その実現のために中心的な役割を果たしたのが、陸軍省軍務局長で暗殺された永田鉄山でした。

彼は、第一次世界大戦をはさんで、約6年間、ヨーロッパに滞在、ヨーロッパの列強がどのように戦争を戦ったのかをつぶさに観察しました。
そして、近代の戦争が、「国家社会の各方面」にわたって戦争のために動員する「国家総動員」を行う国家総力戦になったと見ていました。

そして、平時における国家総動員と資源確保のためのプログラムを描くのです。
国家総動員は、国民動員、産業動員、財政動員、精神動員などから構成されます。国民動員の手段として、女性労働力の利用のため、託児所設立の必要性に言及されているのも興味深いです。

1935年8月12日、永田鉄山が陸軍省軍務局長室で相沢三郎中佐に刺殺された後も、永田の構想は生き続け、日本は国家総動員体制に移行していきます。

陸軍内部の権力闘争は、熾烈でした。
陸軍内部の複雑な派閥や人間関係、熾烈な権力闘争の様子もリアルに描かれています。
重要な方針決定の経過や背景が、克明に描かれており、いろいろな意味で、示唆に富む内容になっています。