久元 喜造ブログ

2014年5月8日
から 久元喜造

『万霊節』ー私が好きな曲⑥

さわやかな5月の日々が過ぎていきます。
この季節に、ふと耳に聞こえてくる歌が、R.シュトラウスの『万霊節(Allerseelen)』です。

香り高い金木犀を テーブルに置き
最後の赤いアスターをもって こちらへおいで
そして再び愛について語ろう
かつて5月にそうしたように

花々が咲き誇る5月の、愛の歌のように聞こえます。追憶の気配を伴いながら。

手を出して そっとにぎらせておくれ
誰かに見られてもかまわないから
君のやさしい眼差しを わずかでも見せておくれ
かつて5月にそうしたように

そこで突然、場面は、「万霊節」の日に転換します。
ここで、恋人が亡くなり、その追憶の歌であることがわかります。
魂の高揚とあたりの静けさが、墓地を支配します。

すべての墓には花が咲き誇り 香りが漂っている
きょうは 一年に一日だけの 死者が解き放たれる日
おいで僕の胸に そしてまた抱かせておくれ
かつて5月にそうしたように


歳をとるということは、自分が生きているのに、その一方で、肉親や友人、大切な人を失っていく過程なのかもしれません。
それはとてもつらいことです。とりわけ、その人のことを深く愛し、その人が本当にかけがえのない存在であった方にとっては。
それでも、失った大切な人は、残された者の中に生き続けることができます。
高校生の時に読んだ、ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』の中の一節
「死者は生者とともに生き、生者とともに死ぬ」
という一節を想い起こします。


2014年5月5日
から 久元喜造

佐藤優『甦るロシア帝国』

ロンドンから帰りの飛行機の中では、佐藤優『甦るロシア帝国』を読みました。
離陸前に、携行していた雑誌「プレジデント」(2014.5.5号)を開くと、佐藤優氏の解説『ウクライナの「分裂」は何を意味しているのか』が掲載されていました。
単なる偶然なのですが、本書に対する期待が高まります。
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『甦るロシア帝国』を読み進んでいくと、ウクライナの歴史に関する詳しい叙述がありました。ソ連科学アカデミー民族学研究所のチェシュコ副所長との対話の中で、ウクライナの複雑な民族問題、宗教間の軋轢、そして当時のゴルバチョフ書記長のウクライナへの対応などが語られていきます(同書241-265頁)。
「プレジデント」の解説は、本書中の上記記述と全く符合しています。「ウクライナへの軍事介入をロシアが行う可能性は極めて低い」という佐藤優氏の見通しどおりに動くことを願いたいところですが、それにしても、佐藤優氏が、その場限りのコメントを垂れ流す多くのコメンテーターや「専門家」とは異なり、深い見識に裏付けられた主張を展開されていることがよくわかります。

本書は、筆者がモスクワ大学宗教史宗教哲学科で教えた学生との交流を通じて、旧ソ連の崩壊過程の舞台裏がどのようなものであったのかを、生き生きと、同時に、生々しく描いています。
そして、学生や旧ソ連の知識人たちとの議論の中で、旧ソ連の民族問題、宗教哲学、共産党イデオロギー、マルクス主義などが縦横に結びつけられ、旧ソ連を構成していた国家と社会がどのような存在であったのかがわかりやすく語られます。
同時に、市場経済への移行に伴う過酷な社会状況の中を懸命に生きた旧ソ連の若者たちの生き様、そして筆者の彼ら、彼女らへのひたむきな関わりも、本書を読む者の胸を打ちます。


2014年5月4日
から 久元喜造

インフィオラータこうべ北野坂

昨日の5月3日(憲法記念日)は、ロンドンから関空に帰国し、夕刻、「インフィオラータこうべ北野坂」に出かけました。
三宮駅で降りて北野坂を登っていくと、何人かの知人と出会い、立ち話をしたりしたので、携帯に催促の電話がかかってきます。
会場に到着すると、幸い天候にも恵まれ、たくさんの市民のみなさん、観光客のみなさんでいっぱいです。
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花の絨毯の隣の一角で、シンガーソングライターの 信政誠さん にお会いしました。これから、野外ライブをされるところでした。
信政誠さんとは、選挙中、路上で言葉を交わしたことがあり、あのとき以来の再会です。
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CD『コンセプトアルバム  ピアノとうた』を購入し、帰宅後、深夜に家で聞きましたが、やさしさがいっぱいつまった、素敵な曲ばかりでした。「北野坂」など神戸ゆかりの歌をつくられているのも、ありがたいです。
上の写真にあるように、歌による「神戸発信」に期待しています。

「北野・山本地区をまもり、そだてる会」の浅木隆子会長をはじめ、関係者のみなさんと懇談した後、北野坂を登り切ると、神戸から絵本を東北に送る活動をされているみなさんがおられ、活動の内容をお聞きしました。
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「えほんカー」の本棚に並べられている絵本は、名前などの書き込みのない、新品同様のきれいな本ばかりでした。 神戸市民の気持ちが、絵本を通じて、いまだ復興途上にある東北被災地の子供たちに届いてくれることでしょう。
北野坂を下り、オリーブ・アカデミーの取り組みをお聞きし、会場を後にしました。


2014年5月3日
から 久元喜造

再読・長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』

関空からロンドンまで、一人きりのまとまった時間が久しぶりにとれたので、 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』 (ちくま新書)を読みました。10年ほど前に、長谷部東大教授からいただいたときに読んで以来の再読です。
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長谷部教授は、まず、「序章」で、代表民主制と立憲主義の要請との衝突について触れておられます。
この点については、総務省で選挙部長をしていたとき、菅義偉総務大臣(当時)の指示で知事や市町村長の多選制限の可否について研究会をつくって検討した際に、ずいぶん議論したものでした。
従来、旧自治省は、地方自治の本旨や職業選択の自由などとの関連で、多選禁止は違憲の可能性が排除しきれない、との立場でしたが、この研究会では、多選禁止は立憲主義の見地からも正当化されうるし、憲法上許されるとの立場をとりました。

さて、本書では、「なぜ民主主義か?」「なぜ立憲主義なのか?」という根源的な疑問について、思想的な系譜も含めて、わかりやすく議論が展開されていきます。
その上で、長谷部教授は、「立憲主義は、多様な価値観を抱く人々が、それでも協働して、社会生活の便益とコストを分かち合って生きるために必要な、基本的枠組みを定める理念」だとされます。そして、憲法が教えるのは、「多様な生き方が世の中にあるとき、どうすれば、それらの間の平和な共存関係を保つことができるかだ」と指摘されます。
立憲主義は、単なる理念ではありません。それは現実を見るように要求します。
「世の中には、あなとは違う価値観を持ち、それをとても大切にして生きている人がたくさんいるのだということを要求する」という指摘は、まさにそのとおりだと思いました。
同時に、憲法に基づき法を執行する政府や自治体は、自分たちと同じ立場以外は許さないという勢力とも、立憲主義の要請に基づき、辛抱強く共存していかなければならないということも、改めて認識しました。


2014年4月28日
から 久元喜造

「たこ焼き」談義の総括

4月8日のブログ で、 「『たちばな』のたこ焼きは、明石焼きか?」 という疑問を記しましたところ、フェイスブックを含め、たくさんのみなさんからコメントをいただきました。ありがとうございました。
結論は、イエスのようです。

寄せていただいたコメントを総合しますと、明石には、『たちばな』の「たこ焼き」に近い、「玉子焼き」という料理があったようです。
明石観光協会に勤務されていた松村勉さんによれば、明石焼き(玉子焼き)の歴史は、江戸時代にまで遡ります。
江戸の鼈甲細工師、江戸屋岩吉が、明石に来ている時に、卵の白身が強力な糊の特性を持つことに気付き、「明石玉」と言うガラス玉作りを始めました。
その後、「明石玉」の生産に卵が大量に使われるようになり、余った卵の黄身の利用方法として、明石の蛸と組み合わせた料理-「明石焼き」が生まれたのだそうです。
「明石焼」の今のスタイルを作ったと言われている樽屋町の向井清太郎さんは、大正8年に屋台を始めたといいます。

これで、『たちばな』の「たこ焼き」のルーツが明石の「玉子焼き」にあったことは、ほぼ間違いないと思われます。
4月8日のブログ の頓珍漢な腹立ちは、反省をこめて撤回させていただきます。

また、4月17日ブログ で、東京の『多幸兵衛』のことを書きましたが、フェイスブック友だちのお一人が、震災前の『多幸兵衛』の名刺を送ってくださいました。
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この名刺には、何と、「明石 たこ焼き」とあります。
後年、「明石焼き」という名前が広がったので、東京のお店では、「明石焼き」とされたのでしょう。
明石の食文化を守り、担ってこられたみなさん、そして、これを神戸で受け継ぎ、広めて来られたみなさんのご努力に敬意を表し、「たこ焼き」談義の総括とさせていただきます。
おつきあいくださった、たくさんのみなさんに改めて御礼を申し上げます。


2014年4月26日
から 久元喜造

夜の雑木林の鬼女

鈴蘭台に住んでいた中学、高校時代、蛾の採集をするのが好きでした。
夜に活動する蛾には、蝶にはない神秘的な魅力があるように感じられたのです。

夜遅く、ときどき蛾を捕りに行くのは、樹液が出て、カブトムシやクワガタなどが集まる木の幹でした。
家の近くの大歳神社の境内を通り抜け、雑木林に入ります。懐中電灯で足元を照らしながら進むのですが、懐中電灯めがけて、小さな蛾や羽虫、樹液の場所に近づくと、スズメバチが驚いて突進してくることもありました。

ある晩、いつものように、樹液が出る木の幹を照らすと、そこには、体長が15センチは優にある、大きなムカデがいました。
何匹かの蛾が近くに留まっていたり、あたりを飛んでいたのですが、大きなムカデがやはり恐ろしく、昆虫網が当たったりして刺激すると、襲撃されそうな気がして、あきらめて引き返すことにしました。

家に帰って母にその模様を話すと、母は、
「ムカデ1匹におじけづいて帰ってきたんか!それでも男か!」
と、いきなり私を怒鳴りつけました。そして、部屋を出ていくと、
「ついてくるんや!」と、私を従わせ、神社の方向に歩き出したのです。
夜の雑木林を、左手の懐中電灯で獣道を照らしだし、右手に注射器を持って、針を前方に突き出しながら進んでいく母の姿は、鬼女以外の何物ではありませんでした。

さっきの場所に到着すると、鬼女におそれをなしたのか、ムカデの姿はなく、私は、母の助けを借りながら、フクラスズメなど、何種類かの蛾を採集することができました。

それにしても、夜の雑木林は、さまざまな虫の声や、どんなものが発しているのかわからない不思議な声たちで満ちあふれ、それは幻想的だったことを想い起こします。

 


2014年4月22日
から 久元喜造

同じ事業は、同じ名前で。

市役所の中のことは、なるべく、私のブログでは書かないことにしてきました。
「意見があるなら、ブログではなく、直接、言ってください」
「職員の悪口をブログで言うべきではありません」
という諫言をいただいてきたからです。それは、もっともだと思います。
しかし、何度か申し上げても、やはり、変わらないことはあり、特定の組織のことを批判することがないように気をつけながら、市役所の職員のみなさんの目に触れることを覚悟しつつ、申し上げたいことを記させていただきたいと思います。
念のために申し上げますが、これは、特定の部局の説明のことを取り上げているのではなく、全体的な市役所の傾向についての、単なる感想ですので、どこのことの話なのかという詮索なしに、お読みいただければ幸いです。

お願いのひとつは、同じ事業には、同じ名前を使ってほしいということです。
予算のときもそうでしたが、同じ事業や施策に、局などの組織の違いによって、また、担当者の違いによって、それぞれ、違う名前がつけられていて、戸惑うことが結構ありました。
違う名前でも同じことを意味するのだということは、市役所のみなさんは全員わかっておられ、わからないのは、私だけで、質問すると、同じ事業や施策であることがわかったのですが、そのことが確認できた時点では、市役所のみなさんの説明や会話は、もう、とっくに先の方まで行っていて、何が何だか、わからなくなることが結構ありました。

もうひとつ、逆に、違う事業や施策に、似たような名前がたくさんつけられ、いったい、これは、同じものなのか、違うものなのか、わからず、子細に資料を見ると、違うことがようやくわかったということもありました。

できるなら、外の人間にも、わかりやすい事業・施策の名前をつけていただきますよう、お願い申し上げます。


2014年4月21日
から 久元喜造

全国地芝居サミット

第23回全国地芝居サミットが、19日、20日の両日、北区の二つの農村歌舞伎舞台で開催されました。
今回、上演していただく、宮崎県西都市、兵庫県佐用町、大阪市のみなさんのほか、全国で地芝居に取り組んでおられるたくさんのみなさんにお越しいただきました。
20日の日曜日、会場の一つ、下谷上農村歌舞伎舞台 にお邪魔しました。
まず、保存会の田中庄二会長から、舞台の説明を兼ねたご挨拶があり、私からも挨拶させていただきました。
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隣は、母校の山田中学校で、私にとっては、この農村歌舞伎舞台は身近な存在でした。在学中の昭和40年代前半、一度、農村歌舞伎が上演された記憶があります。
昭和52年に火災に遭いましたが、すぐに修復されています。花道の一部が回転する大規模な装置を備えているのが特徴です。

きょうは、まず、体験教室を修了したみなさんにより、『白波五人男』。
たいへん楽しい舞台で、やんやの喝采でした。
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そして、「箱登羅たから歌舞伎」のみなさんによる『恋飛脚大和往来「新口村の場」』
地元の小学生、中学生、高校生のみなさんが、ふだんから 熱心に稽古を重ねてこられたことがわかる、完成度の高い舞台でした。
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午前中の演目終了後、上谷上の農村歌舞伎舞台にも足を伸ばしました。
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上谷上天満神社総代の中西勝さんをはじめ、この貴重な文化遺産の保存、継承に取り組んでおられる地域のみなさんと、短時間でしたが、意見交換をさせていただき、有意義な時間を過ごすことができました。


2014年4月17日
から 久元喜造

『多幸兵衛』の想い出~東京の「明石焼き」~

4月8日のブログ で、「明石焼き」について記しましたところ、フェイスブックに、
「「明石焼き」の名前を知ったのは、上京して歌舞伎町のたこ焼屋に行った時でした」
と、コメントを寄せていただいた方がいらっしゃいました。

そうです。私も同じでした。
歌舞伎町で初めて「明石焼き」の店に入ったのですが、残念ながら、『たちばな』の「たこ焼き」にほど遠く、全然、美味しくありませんでした。

もう東京では『明石焼き』などやめておこうと思い、しばらく遠ざかっていたのですが、再び「明石焼き」に接することになったきっかけは、ある新聞記事でした。
阪神・淡路大震災で被災された神戸のご夫婦が、落合で『明石焼き』のお店を開いた、という内容でした。
そのお店の名前は、 『多幸兵衛』

しばらくして、早稲田通りに面したそのお店に、役所の同僚と出かけました。年配のご夫婦が、おふたりだけで、カウンターの中で忙しそうに立ち働いておられました。
たくさんの種類のおでんのほか、酒の肴がたくさんあり、そして、「明石焼き」が看板メニューのようでした。
私も注文しましたが、歌舞伎町と異なり、なかなか美味でした。

『多幸兵衛』には、その後、何回かお邪魔しました。
ご夫婦に、震災のときのこととか、このお店を開かれたきっかけとか、そして「明石焼き」のことなどお聞きしたかったのですが、繁華街から外れた住宅街のお店とは思えない繁盛ぶりで、結局、ご夫婦とゆっくり会話を交わすことはできませんでした。

『多幸兵衛』は、2010年に閉店になりました。
ネット上の情報では、ご夫婦は、神戸に戻られたとのことでした。
この間、いろいろとご苦労もおありだったことと拝察します。
お元気で、毎日をお過ごしになられますよう、お祈りしております。


2014年4月13日
から 久元喜造

兵庫県芸術文化センター管弦楽団・定期演奏会

昨日、初めて、兵庫県芸術文化センター管弦楽団・定期演奏会を聞かせていただきました。
プログラムは、グリンカ:『ルスランとルドミューラ』序曲、ラフマニノフのピアノ・コンチェルト第2番、チャイコフスキーの『悲愴』です。

ピアノは、ロシアの新星ドミトリー・メイボローダ。1993年モスクワ生まれですから、21歳くらいの若いピアニストです。
大きなコンクールの賞歴はないようですが、すでに一流ピアニストの仲間入りをしている、素晴らしい才能だと思いました。芸術文化センター関係者のみなさまの人材発掘力を感じさせます。
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メイボローダの演奏の特徴は、瑞々しさがあふれていると同時に、ひじょうに洗練されていることです。もったいぶった表情づけは見られず、若い演奏家にありがちな、これみよがしに自らの個性やテクニックを見せつけようというところは、まったくありません。
音の粒はきれいにそろっていて、それでいて、意味のある音にはしっかりと存在感を与えます。そして、音楽は小気味よく、前へ進んでいきます。

そんなメイボローダの演奏スタイルがよく発揮されていたのは、コンチェルトの第3楽章だったと思います。
テンポは、もちろん指揮者と打ち合わせた上でのことでしょうが、少々速め。スコアに書かれているかどうかはわかりませんが、音楽が勢いをつけて進んでいく箇所では、自然にアッチェレランドし、気持ちよく推進力がついていきます。
ロマンティックな表情を見せるところでも、過度に情感に浸ることはありません。
完成度の高い名演でした。

アンコールがあり、記憶違いでなければ、ラフマニノフのト長調作品32の5のプレリュードが弾かれました。
心に染みいる、静謐の世界でした。
続いて、もう1曲、ト短調作品23の5のプレリュード。
リズムはしっかり刻まれていますが、決して重くなることはなく、やはり自然に音楽が流れていきます。
曲は消え入るように終わります。最後の音は、不思議な浮遊感を伴いながら、ホール空間の上方に消えていきました。