久元 喜造ブログ

2015年5月13日
から 久元喜造

廊下で仕事をしていた先輩のこと。

3月21日のブログ と同じようなシーンで恐縮ですが、20代の頃、こんなこともありました。
廊下を歩いていたら、先輩が机に向かって仕事をしているのです。
「どうしたんですか?」
と訊ねても返事がありません。

どうもその先輩は、別の課の先輩に頼まれてドイツ語の資料を翻訳していたのだそうですが、 それが上司に見つかり、その上司は、
「俺が指示した仕事を差し置いて、よその課の仕事をするとは何事!」
と激怒し、
「出て行け!部屋から出て行け!こいつを部屋から追い出すんだ!」
と、部下にその先輩の机を運び出させたというのです。

トイレに行くとき、必ず、その先輩の横を通るので、
「先輩、まだ許してもらえないんですか?」
とか、
「日比谷公園のカメでも見て遊んでたらどうですか?」
とか言って、からかっていたのですが、そのたびに、
「うるさい!」
と、そっぽを向かれるだけでした。
上司からは、「持ち場を離れたら、タダではすまぬ」と脅かされていたのでしょう。

高熱にうなされていた私は、それでも資料を仕上げて課長にタクシーで届け、この先輩は、廊下で仕事をさせられる姿を後輩に晒し、・・・どうしてあんな理不尽に耐えていたのか、今から振り返ると不思議です。
そんな時代だったのでしょう。

このような理不尽の責任は、国の省庁の場合は、部屋の主であり、組織の責任者である課長にあったことは、はっきりしています。
職場の雰囲気が、課長などの所属長によって左右されることは、今も昔も同じだと思います。
部下が少しでもやる気を出して仕事に取り組むことができるよう、所属長のリーダーシップに期待したいと思います。
同時に、組織全体の士気のありようについては、トップの責任が大きいことは言うまでもありません。


2015年5月10日
から 久元喜造

都市が舞台装置・小林多喜二『党生活者』

日経新聞に、小林多喜二(1903-33)の恋人、田口タキ(1908-2009)についての連載が掲載されていることもあり、小林多喜二について少し。

代表作『蟹工船』は、大学のときに一度読みました。そして10年ほど前、格差社会が議論され出したころにクローズアップされ、改めて文庫本を購入して再読しました。
正直、つまらなかったです。
舞台設定は閉ざされた船の中、登場人物は定型的で、人間像が浮き彫りになってきませんでした。
takiji

ところが、文庫本に収録されていた 『党生活者』 がとても面白かったのです。
ときどき想い出したように紐解くことがあります。

主人公の「私」は、共産党の「細胞」のひとり。
毒ガスのマスクやパラシュートなどを製造する軍需工場に勤めていましたが、仲間の逮捕に伴い、地下に潜って活動することになります。
官憲や密告者の目をかいくぐりながら、仲間と連絡を取り合い、ビラを撒いたり、工場内の抗議活動を扇動するなど、非合法活動を続けます。
女性との恋情や葛藤も綴られます。
肩身の狭い想いで暮らしている母親とひっそりと会い、理解してもらえていることに涙します。

このように、『党生活者』では、極限状況の中で反体制活動を続ける登場人物の微妙な心理が生き生きと描かれ、『蟹工船』とはかなり異なる世界をつくりあげています。

さらに、この小説を魅力的なものにしている背景の一つは、都市という舞台設定だと思います。
工場、下宿、お店、路地など、街のあちこちに、「私」は現れ、歩き、逃げ回り、潜行し、絶望して天を仰ぎます。
おそらくは灰色にくすんでいたであろう1930年代初頭の大都市の相貌が、陰影に富んだ世界を創り上げているように思えました。


2015年5月7日
から 久元喜造

文化行政は、地道な仕事も大切に。

先月、西区の里山を歩いたとき (4月27日のブログ)  、「太陽と緑の道」に、下の写真の看板が置かれていました。
あまりにも汚く、最初は不法投棄されたゴミかと思ったら、神戸市が設置した看板でした。

150426-6

複合産業団地の造成を始めた平成5年に、迂回の案内をした看板のようです。
この表示の必要がなくなった平成17年4月から、もう10年も放置されていたと思われます。

直ちに、撤去するようにしました。

「太陽と緑の道」は、神戸市が設けたハイキングコースで、今年度も管理のために約265万円が計上されています。
本来、コースを汚すことがないよう市民のみなさんに呼びかけるべき立場の市が、このような看板を10年にもわたって放置してきたことは、たいへん遺憾です。
10年の間に、この前を通った市職員もいたと思いますが、誰一人通報する人がいなかったことは、寂しい限りです。

この看板は、当時の「市民局文化振興課」が設置したようで、「太陽と緑の道」は、現在も文化行政担当部が所管しています。
文化行政は、ともすれば、大規模芸術イベントなど華やかな分野にばかり目を向けがちですが、地道な仕事をきちんとしていくことも大切です。
私も、気を引き締めて取り組んでいきたいと思います。


2015年5月5日
から 久元喜造

祝・デカンショ節 日本遺産認定

きょう報道されている産業革命遺産の世界文化遺産登録に比べれば、地味な話題なのですが、去る4月24日、文化庁は、 丹波篠山デカンショ節 を日本遺産に認定したと発表しました。
酒井隆明篠山市長をはじめ関係者のみなさまに、お慶びを申し上げます。

デカンショ節は、学生時代、 尚志館 でよく歌ったものです。
尚志館は、もともとは篠山藩主直系、青山家の私塾に由来し、社団法人「兵庫県育才会」が運営しています。
小田急線の参宮橋から坂道を上った、代々木の閑静な住宅街の中にあります。

私は、1972年(昭和47年)4月、大学入学と同時に尚志館に入寮しました。
寮生は、全員、篠山鳳鳴高校など兵庫県内の高校の卒業生でした。
今では行われていないと思いますが、入寮したての頃、夜、屋上に新寮生全員が正座させられ、上級生からの訓辞を聞いたものです。
出身高校も大学も違う寮生がともに暮らした2年間は、本当に楽しい日々でした。

下の写真は、3年前の2012年4月8日、代々木公園で花見をし、尚志館が懐かしくなって、酔っぱらいながら前を通ったときに撮った写真です。

120408-4120408-2120408-5

尚志館では、篠山鳳鳴出身の友人がデカンショ節をよく歌っていたのですぐ覚えました。

デカンショ デカンショで 半年暮らす   あとの半年 寝て暮らす

この後に続く定番の歌詞はあるのですが、何人かで、順番に替え歌を即興でつくって歌い継いでいったものです。

青春の想い出がいっぱい詰まった尚志館も、建物が老朽化し、建て替えられることになりました。
敷地の約半分を売却して建築資金をつくり、新しい寮が建設されます。
建物が二代目になっても、後輩のみなさんが尚志館でデカンショ節を歌い継いでいってくれれば、うれしいですね。


2015年5月3日
から 久元喜造

明るい神戸へ。

神戸をいろいろな意味で明るくしていきたいものです。
市民の暮らし向きや子供たちの表情、街の佇まいを、少しでも明るくしていくことは、神戸市政の任務だと思います。

そういう観点からはささやかな試みですが、神戸市の関係施設の照明を明るくしたいと考えています。
もちろん、電力消費量との兼ね合いは大切で、省エネに逆行するようなことがあってはなりません。

まず、地下鉄の駅構内の照明を明るくする努力を続けています。
西神山手線各駅ホームの照明について、平成26年度より、環境省の補助金を受けて、従来の蛍光灯をLED灯に取り替えています。
この結果、照度は、平均して概ね3割上がっています。逆に、電気使用量は、約5割減ります。
この結果、従来一部しか点灯させていなかった改札口付近の照明についても、点灯させることができるようになりました。

sannomiya1

先日、三宮駅を見に行きましたが、ホームを含め駅構内がかなり明るくなったことを実感できました。
平成28年度までに、西神山手線全駅のLED化、あるいは、高効率型蛍光灯(HF)化を完了します。

また、市役所についても、エレベーターホールや廊下の照明を、電力消費量に与える影響を慎重に勘案しながら、明るくすることにしました。

電力消費量がピークを迎える夏期については、照明を落とすこともあると思いますが、基本的には、少しでも明るい屋内空間にしていきたいと考えています。


2015年4月30日
から 久元喜造

地方選挙の低投票率②

統一地方選挙後半の平均の投票率は、前回よりもさらに下がり、これまでで最低になりました。
なぜ、地方選挙が有権者の関心を集めないのか ― それは、身近なはずの地方選挙が、実は身近ではない からではないでしょうか。
その理由は多岐にわたると考えられ、その一つ一つを取り上げ、解決していくことが必要です。

それらの要因の一つに、規模の大きな自治体では、選挙区の単位が大きすぎて、有権者から見て候補者が身近な存在ではないことが挙げられると思います。
とくに、指定都市ではない大規模な市や東京の特別区で、全域を単位とした選挙区で選挙が行われていることは、大きな問題だと思います。
下は新宿区のポスター掲示場ですが、この中からたった1人を選ぶ選挙が果たして合理的なのでしょうか?
shinjuku1504

千葉県船橋市は、人口が62万を超える大都市です。今回の市議会議員選挙の結果を見てみましょう。
船橋市議会の定数は50で、73人が立候補しました。
当選者の最低得票は、2109.410票(按分)で、この得票は、選挙区の投票者数18万2772人のわずか1%余り、有権者数49万1791人の約0.4%に過ぎません。
ごくわずかな得票率で当選でき、ほとんどの市民が知らない議員で議会が構成されることになります。

市議会議員は言うまでもなく市民の代表ですが、現行の大選挙区制度は、当選した議員がほんとうに住民の代表としての資格を備えているのかという疑問を投げかけています。
規模の大きな市や特別区については、法律で基準を定め、指定都市のように、複数の選挙区に分割することを義務づける必要がありそうです。


2015年4月27日
から 久元喜造

寺谷から木津へ新緑の山歩き。

昨日の日曜日は、西区の福谷で開催された「第16回れんげまつり」にお邪魔しました。
福谷では、約30アールのれんげ畑が広がっています。
150426-1
良い天気に恵まれ、たくさんのみなさんが会場を訪れ、穏やかな風景を楽しんでおられました。
櫨谷中学校をはじめ地元小中学校、消防団、自治会、里づくり協議会、婦人会、青少年育成協議会など地域のみなさんが連携して続けてこられたお祭りです。
ニュータウンのみなさんとの交流の場ともなっています。

この日の午後は、公務もなく、西区の山歩きを楽しむことにしました。
櫨谷町寺谷から山道に入り、林の中を進みます。
好天に恵まれ、気持ちの良い里山歩きです。
茂みの間をしばらく歩くと、眺望が開け、棚田が現れました。
150426-2

木々の間から、古くからあると思われるため池が見えてきました。
150426-3

残念ながら、池のすぐ下には耕作放棄地が広がっていました。
150426-4
耕作放棄地をどう再生させるかは大きな課題で、神戸市でも取り組んでいます。
地理的条件などによって、田畑としてよみがえらせるところと、山に戻すところとの仕分けが必要かもしれません。

さらに歩くと、視界が開け、遠くに、雄岡山と雌岡山を望むことができました。

150426-5

木見の里に出ました。
小鳥が鋭い声で鳴いています。
大歳神社、顕宗仁賢神社に参拝し、木津から帰路につきました。


2015年4月25日
から 久元喜造

トーテムポール 1962年

3月28日のブログ で、 トーテムポールについて書きましたところ、次のようなコメントをいただきました。

今から約50年以上も前に、当時山下汽船の山里丸の3等航海士で日本、北米間の定期航路にて勤務しておりました。
バンクーバー出港直前になって、急遽代理店の Nortonlily から、Seattle市から神戸市への寄贈のトーテムポールをぜひ船積してほしいとの依頼がありましたが、時間とスペースの問題があり、関係者検討の結果、船長の決断で、Vancouverを出た後、夜を徹してJuan de fuca Strait を走り、明け方西海岸の Aberdeen に臨時寄港、Grace Harbour 岸壁に着岸しました。
当時小雨の降る寒い中で、朝から3分割された大きな木箱を船橋後部の甲板上に積載、乗組員が協力してシート掛けや固縛作業も行い、急いで出航いたしました。
当直航海士の私も、大変印象のある仕事でした。

コメントをいただいたのは、北区にお住いの桑嶋收平さんでした。
お礼のメールをお送りしたところ、桑嶋さんから返信がありました。
桑嶋さんは、1961年2月18日に横浜で乗船され、翌1962年3月8日に尼崎で下船されたとのことでした。
1年1月休みなしの乗船勤務の中、トーテムポールをアバディーンから神戸港に運んでいただいたのです。

私は、一言、桑嶋さんにお礼を申し上げたいと思い、先日、市役所でお会いすることができました。
当時の模様や、神戸港のことなど、興味深いお話をお伺いすることができました
そして、松田国際交流推進部長が桑嶋さんを森林植物園までご案内し、大地に還りつつあるトーテムポールと対面していただきました。

桑嶋さんのような方々のご尽力があって初めて、トーテムポールは、半世紀以上にわたり、神戸の街の移り変わりを見守り続けてくれたのだと、改めて感じました。
心より感謝申し上げます。


2015年4月20日
から 久元喜造

御影公会堂にて。

きょうは、春の雨の中、御影公会堂にお邪魔しました。
mikage1
2月27日のブログ で書きましたように、神戸には、日比谷公会堂に匹敵するような公会堂はつくられませんでしたが、今も異彩を放っている公会堂が、東灘区の御影公会堂です。
国道2号線が石屋川を跨ぐ東側にあります。

御影公会堂が竣工したのは、1933年(昭和8年)。
当時は、兵庫県武庫郡御影町でした。
『続・御影町誌』(御影地区まちづくり協議会発行)によれば、
「竣工当時は、阪神間には千人収容のホールは無く、その大きさと優美な大理石とガラスを多用した第一級の建築物として名を馳せ」たと言います。

きょうは、初めて地下の食堂にお邪魔しました。
とてもレトロな雰囲気です。
mikage3

食堂を経営しておられる鈴木利裕さんのお父様は、公会堂オープンと同時に食堂を任され、鈴木さんが後を継がれました。
高校の大先輩です。

きょうは、名物のオムライス・セットをいただきました。
mikage2

鈴木さんから少し公会堂のお話を伺いましたが、公会堂を設計されたのは、神戸市の初代営繕課長をつとめた清水栄二氏とのこと。
1945年(昭和20年)6月の空襲により全焼しましたが、1950年(昭和25年)、御影町が神戸市に合併して東灘区が誕生したのを契機に、神戸市が修復を行いました。
しかし、当時はたいへんな財政難で、かなり時間がかかったとのことです。
1995年(平成7年)の阪神大震災でも倒壊を免れ、約1年間、避難所としての役割を果たしました。

御影公会堂を訪れるたびに、風雪、そして戦災、震災に耐えてきた独特の雰囲気に感慨を覚えます。
地域のみなさんの手で大切に守られてきた御影公会堂。
末永く地域に愛されるよう、外観に配慮しながら、耐震改修を進めることにしています。


2015年4月17日
から 久元喜造

『ヴィッセル神戸』に対する神戸市の責任

楽天の三木谷浩史会長は、ご著書 『楽天流』 の中で、 ヴィッセル神戸 との関わりについても記しておられます。
rakuten

「2003年、僕は、生まれ故郷である神戸市の市長から電話を受けた。地元のプロサッカー・チーム、ヴィッセル神戸の運営について相談したいと言う。」

三木谷会長が書いておられるように、当時は、景気の低迷が続き、チームの主要スポンサーがヴィッセル神戸への支援を続けられなくなっていました。そして、神戸市も関与しようとしたのですが、とても財政的に耐えられるような状況ではなく、当時の矢田立郎市長が三木谷会長に支援をお願いされたのです。

三木谷会長は、チームを個人で購入され、財政上のバックアップを引き受けて下さいました。
その理由の一つとして、「神戸には個人的にとても強い愛着を抱いていた」ことを挙げておられます。
とてもありがたいことです。
同時に、三木谷会長は、「スポーツ、芸術、音楽などに関わる文化事業は、人々にとって欠かせない特別なものだと信じていた」とも記しておられます。

そして、チーム創設から20年が経った昨年12月、楽天株式会社が、株式会社クリムゾンフットボールクラブ(ヴィッセル神戸)の株式を取得され、ヴィッセル神戸への支援はさらに強化されました。
改めて、三木谷会長に感謝申し上げます。

神戸市としても、ヴィッセル神戸に対する責任を果たしていかなければなりません。
本拠地の自治体として、ヴィッセル神戸が市民球団としてますます市民に愛されるよう努力していくことはもちろんですが、大事なことは、良好な試合環境を提供することだと思います。
ノエビアスタジアム について、芝の管理を含め、社長、監督、選手のみなさんのご意見をよくお伺いしながら、しっかりと対応していきたいと考えています。