久元 喜造ブログ

2015年1月28日
から 久元喜造

東京事務所を県・市で一体的に運営

すべての都道府県・指定都市、規模の大きな市の多くは、東京に事務所を置いています。
東京事務所の使命は、各府省、国会、地元選出を中心とする国会議員、政党、地方六団体などの関係団体などの動きをウォッチし、情報収集を行い、シティセールスや企業誘致などの分野で、本庁と緊密に連携を取りながら、必要な働きかけを各方面に行うことです。

兵庫県の東京事務所は、都道府県会館の中にあり、神戸市の東京事務所は、全国都市会館の中にあります。
両事務所は、ともに千代田区平河町にあり、数十メートルしか離れていません。

それぞれの事務所は、これまで連絡をとりつつも、別々の活動を行ってきました。
しかし、サミットの誘致、大阪湾岸道路の西方への延伸、神戸医療産業都市構想の推進など、神戸市と兵庫県が一体になって行動しなければならないテーマも多く、これまで以上に、両事務所の緊密な連携が求められるようになってきました。
また、各府省が東京事務所の職員を集めて開催する会議などには、それぞれの事務所の職員が出席して、県・市の関係部局に別々に報告してきましたが、これなどは無駄そのものです。
県・市の二重行政は、極力、減らしていかなければなりません。

こうしたことから、今年の4月1日から、神戸市東京事務所を兵庫県東京事務所内に移転し、同じオフィスの中に同居することにしました。
大阪府・市に続く、政令都市では、二番目の事例となります。
神戸市の職員は削減します。
それぞれの事務所は独立して存在しますが、一体的に運営されることになります。
県・市の職員がこれまで以上に緊密に連携をとり、テーマに応じて一体的に行動し、効率的に事務を処理していくことが期待されます。


2015年1月23日
から 久元喜造

矢田前市長の半生記

矢田立郎前神戸市長が、ご著書 『道を切り拓く』 (神戸新聞総合出版センター)を出版され、ご恵与いただきましたので、さっそく読ませていただきました。
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苦労を重ねられた半生が綴られていました。

矢田市長が幼年時代を送られたのは、戦争がいよいよ終末を迎えようとしていた時期でした。
昭和20年、神戸が大空襲を受けたときの記述は鮮明で、私が母から聞いた記憶と重なります。
戦後の苦難の中で成長していかれるのですが、優秀な成績を収められる一方、学級委員長などを務め、リーダーシップを発揮されたようです。

そして、神戸市役所に奉職。
厳しくも温かな先輩にたすけられながら、次第に組織の中で信頼される存在になっていかれる様子が、抑制の効いた文章の行間から読み取れます。
印象に残ったのは、民生局庶務課長をされていたときのことです。
とんでもない事件が起き、市長をはじめ組織を挙げての対応がなされるのですが、矢田市長は、ポストを離れても、13年間、被害者の方への訪問を続けられたのでした。
誠実なお人柄が窺えます。

空港の責任者として対応されたときの記述も、印象深いものでした。
今日、空港に反対するのは、共産党などごく一部のみなさんですが、矢田市長が空港の責任者をされていたときは、議論が伯仲していました。
そのような中で、理不尽な反応にも冷静かつ毅然と対応された矢田市長の存在があったからこそ、今の神戸空港があるのだということを、改めて認識しました。

今年は、神戸空港にとり、大事な年になります。
矢田市長のご努力を汚すことのないよう、市役所のみなさんの助けを受けながら、全力で取り組んでいきます。


2015年1月20日
から 久元喜造

岩田健太郎氏の批判に答えます。

岩田健太郎氏という医師の方から、ご著書が送られてきました。
興味深く読み進めたところ、私の名前が出てきたので、驚きました。
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昨年8月に台風11号が接近してきたとき、「危険と知りながらキャンプを強行した」NPO法人があり、増水のためにキャンプ場に取り残された子ども、大人を、消防が救助しました。
このNPOの行動について、私が「非常識だ」と批判(『神戸新聞』8月12日)したことについて、 岩田氏は、次のように書いておられます。

「個々の振る舞いに対して、「それは他人に迷惑をかける」といういかにも分かりやすい根拠で他者の行動をいちいち非難されるのは、ちょっとえげつないです。みんな、大なり小なり人様に迷惑をかけながら、「おかげさまで」生きているのですから」(140ページ)

岩田氏が私を批判している事案とは、北区の「柏尾谷リバーパーク」で、河川の増水により、大人10人、子供41人が下山困難となって取り残され、消防から3隊13人が出動して救助に当たった事件です。
8月12日の記者会見 で申し上げたところですが、このとき、北区では大雨により、河川の氾濫、土砂災害の危険が高まっていました。
幸い、大きな災害はありませんでしたが、もし、そのような事態になれば、このNPOによって災害救助活動に大きな支障が生じた可能性があります。
私は、単に「非常識」と批判したのではなく、「このようなことは慎んでいただきたい」と具体的な呼びかけをしたのでした。
このNPOの行為が、単なる迷惑行為なのではなく、ほかの市民の生命を危険に晒すことになったからです。

このような危険な行為を未然に防ぐことは、私の責務だと思います。


2015年1月17日
から 久元喜造

震災から20年・1.17のつどい

東遊園地で開催された「神戸市震災20年追悼のつどい」に参列しました。
これまでと同じように、蝋燭の灯を前にして人々が集っていますが、20年ということもあり、昨年の2倍以上のみなさんが、会場にお越しいただきました。
ひとつひとつの灯りに込められた想いと向き合いました。

黙祷の後、モニュメントの前で、式典が開始されました。
被災者でもある森祐理さんの歌で、「しあわせ運べるように」が歌われ、ご遺族の代表の銘田奈津紀さん、新成人の小川和昭さんがあいさつをされました。
しっかりと参列者の耳に届く言葉で語ってくださいました。

私から、追悼の言葉を述べました。
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市役所まで歩き、神戸市危機管理推進会議に出席した後、職員のみなさんに挨拶をしました。
神戸市でも、職員の46%が、震災を知らない世代が占めるようになっています。
ベテラン・若い世代のチームが一体となった、東日本大震災被災地への支援も続いています。
私たち神戸市民は、あの阪神・淡路大震災のときにいただいた国内外からの支援を忘れることなく、国内外をとわず、防災・減災・安全・健康などの分野で、常に貢献し続ける都市でありたい ― そのような神戸の姿に、神戸市民が誇りを持って語り合えるような都市を目指していきたいと念じます。


2015年1月16日
から 久元喜造

山田洋次監督・竹下景子さんとの対談

昨日は、神戸文化ホールで、「次世代へ“歌い継ぐ・語り継ぐ市民のつどい~山田洋次監督、竹下景子さんを迎えて~」が行われました。
まず、「しあわせ運べるように」の作詞・作曲者の臼井真先生と西灘小学校「しあわせ運ぶ合唱団」により合唱が行われ、神戸市などに寄せられたメッセージが紹介されました。

後半は、映画監督の山田洋次さん、女優の竹下景子さんを迎えて、対談が行われました。
山田洋次監督の「寅さんシリーズ」第48作「紅の花」では、震災の年の1995年、まだ地震の傷跡が残る長田区でロケが行われました。
また、竹下景子さんは、毎年1月17日前後に、神戸や阪神地区で詩の朗読をしておられます。
対談では、私がインタビュアーになり、お二人に、これまでの神戸との関わりや、復興していく神戸の姿をどうご覧になっておられたのかなどについて、お伺いしました。

山田監督からは、結果的に「寅さんシリーズ」の最終作になった「紅の花」にまつわる、当時のエピソードをお聞きしました。
震災の年の4月、長田の住民のみなさんからロケの要望がありましたが、まだ被災地の様子が生々しく、ロケをするのは失礼と、いったんは断られたそうです。
しかし、改めて住民のみなさんが署名を集めて、再度の要望があったのを受け、思い直してロケを行ったとのことでした。

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対談終了後、山田監督と懇談させていただく時間を持つことができました。
山田監督は、私が青春時代を過ごした大学の寮の先輩に当たります。
当時の寮やあたりの佇まいのこと、映画のことなどいろいろとお話をお伺いすることが出来、楽しいひとときでした。


2015年1月13日
から 久元喜造

華やかに、厳粛に-神戸の成人式。

昨日、ノエビアスタジアムで、神戸市の成人式が行われました。
9800人の新成人のみなさんが参加されました。1994年4月2日から1995年4月1日までに生まれたみなさんです。
この間の1995年1月17日、阪神・淡路大震災がありました。
新成人の多くは、あの地震が起きたとき、生まれたばかり、あるいは、まだお母さんのお腹にいたみなさんです。 余震が続き、想像を絶する環境の中で育ち、神戸の復興の槌音を聞きながら成長して来られたことでしょう。

成人式では、最初に黙祷が捧げられ、「幸せ運べるように」を会場のみんなで合唱しました。
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決して静まりかえっていたというわけではありませんが、多くのみなさんが、私と安達市会議長の祝辞にも耳を傾けてくれました。
8人の新成人の代表が、誓いの言葉を述べ、拍手が送られました。

その後の報道によれば、横浜などほかの自治体では、参加者の一部が荒れ、混乱も見られたようですが、神戸の成人式は、そのような兆候すらなく、華やかな雰囲気の中にも、厳粛に行われました。
神戸は、突然の災害を前にして立ちすくみ、それでも苦境と立ち向かい、試練を乗り越えてきました。市民が助けあい、励まし合いながら、街を甦らせてきました。
そのような神戸の経験は、新成人たちに間違いなく受け継がれていると確信することが出来、言いしれぬ感動を覚えました。


2015年1月11日
から 久元喜造

震災の記憶と向き合う。

昨日は、神戸国際会議場で開かれた「日本公衆衛生看護学会学術集会」に出席。その後、保健師のみなさんが制作した展示を見せていただきました。
震災のときの記録の一部です。
震災から2週間が経っても、避難所のトイレには水が流れず、便器には汚物がたまりました。そのときの注意事項が書かれた掲示です。今では正視しづらい内容ですが、目をそらすことがあってはならないと感じました。
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その後、旧二葉小学校で開かれた「大学生 阪神・淡路大震災を語る」にお邪魔し、大学生のみなさんの発表の一部を聞き、簡単なコメントを申し上げました。
いずれも、素晴らしい内容でした。
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旧二葉小学校内には、震災当時の記録が展示されていました。

東灘下水処理場は壊滅。隣の「魚崎運河」を使って下水の処理を行うことにしました。下の図面は、当時の下水道担当職員が、この処理方法を編み出すためにつくった手書きの図面です。
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職員のみなさんの悪戦苦闘と試行錯誤のあとが偲ばれ、しばらく見入りました。


2015年1月8日
から 久元喜造

「里山資本主義」 ― 真庭市の挑戦

ベストセラー、『里山資本主義』(藻谷浩介、NHK広島取材班) に、岡山県真庭市の取り組みが紹介されています。
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真庭市は、2009年に9つの町村が合併して出来た市です。人口は約5万人。広大な面積の8割が山林が占め、林業が盛んです。
この真庭市では、山の木を利用することで、エネルギーの自立を促す取り組みが行われています。
その柱が、製材所から出る豊富な木くず ― 木質バイオマスを使った発電です。すでに地元企業が発電施設を建設し、2000世帯分の発電を行っています。
また、木質バイオマスからペレットをつくり、専用のボイラーストーブの燃料として使われています。

真庭市の太田昇市長とは、1990年代、京都府庁で一緒に仕事をしたことがあり、その後もお世話になってきました。
そんなご縁もあり、昨年暮れ、環境局環境貢献都市室の職員二人に真庭市を視察してもらい、詳しい報告を受けました。

神戸市でも、管理が十分でないため環境上、防災上の課題を抱える山林が広がっています。山林の適正管理を進める一環として、間伐材や剪定枝を木質バイオマスとして活用することは意義のあることではないかと考えられます。
神戸市では、林業がほとんど存在しないため、真庭のような民間の製材所や森林組合が主体となって発電などの事業を行うことは困難です。
しかし、北区、西区では農業が盛んですから、間伐材などからペレットを生産し、農業用ボイラーに活用することなどが考えられるのではないでしょうか。
真庭市の取り組みを参考にしながら、神戸の里山の再生とクリーンエネルギーへの活用に踏み出していきたいと思います。


2015年1月5日
から 久元喜造

新しい成長軌道へ。

明けまして、おめでとうございます。
振り返れば、震災20年の神戸は、試練を克服してきた歩みだったと思います。
想像を絶する震災への対応、困難を極めた復興に神戸は立ち向かい、今日の再生を図ることができました。

もうひとつの大きな試練は、財政再建団体への転落を何としても回避することでした。 神戸市財政は、徹底した行財政改革と経費の節減によって、財政危機を克服することが出来ました。

震災20年後の神戸を展望するとき、これまでとは異なる手法で、都市の発展を図る時期を迎えていると思います。
神戸を新しい成長軌道に乗せ、成長から生み出される財源をさらに将来への投資につなげ、その投資がさらなる成長を呼び込むという好循環をいかに創り出していくかが問われています。

新しい成長への道筋のひとつは、神戸がここまで発展してきた原点 ― 交通の要衝であるという神戸の地位を高め、発展させていくことにあると思います。
神戸港の港勢を高め、神戸空港の利活用を図り、行き止まりになっている湾岸道路の西方への延伸を進めていくことは、不可欠です。

さらに、成長軌道への道筋は、優れた人材、成長力のある企業を神戸に呼び込んでいくことにあります。そのための方策は、産業振興やインフラ整備に限られるものではなく、学力、人間力の面でもトップクラスの教育、子ども、子育てができる環境を含め、トータルな市民生活、非日常性に満ちた都市の魅力を創造していくことだと思います。
新しい知恵や発想がクロスし、火花を散らし、そして、新しい何かが生まれていく ― ここにこそ、都市としての新しい成長軌道を紡ぎ出していくダイナミズムがあるのではないでしょうか。


2014年12月31日
から 久元喜造

寝台列車で迎えた新年の想い出。

あれは、1982年の大晦日だったと思います。
当時、私は、青森県庁の企画部で、国家予算要望の担当をしていました。
この年は国の予算編成が延び、大晦日に作業が終わって、上野発の寝台特急「ゆうづる」に飛び乗りました。

寝台は、3段ずつの2列が向かい合わせになっていました。私は、一番下の寝台でしたが、まわりは、同じグループの女の子たちのようでした。
彼女たちが小声で話している様子からは、自分たちで飲みながら話したいのに、私がいるので戸惑っているようでした。
私は、思い切って、「ぼくのことは気にせずに、みなさんで楽しんで下さい」と声をかけました。
女の子たちは少し迷っているようでしたが、「ご迷惑でなければ、いっしょにどうぞ」と誘ってくれました。

寝台列車の中で、酒盛りが始まりました。
彼女たちは、青森出身で、同じ銀行に勤める銀行員でした。さっきまで仕事をしていて、いっしょに帰省するのだそうです。
それぞれが持ち込んだビールや酒がすすみ、声が高くなったのでしょう、車掌が回ってきて、
「静かにしてください」と、注意されましたが、一瞬、声を潜め、また、酒盛りを再開しました。

どのあたりを走っている頃だったでしょうか、時計の針が午前零時を回り、私たちは、寝台列車の中で新年を迎えました。
「新年おめでとう!」「かんぱーい!」
紙コップを上げて、新年のお祝いをしました。
車掌がまた近くを通ったような気がしましたが、何も言いませんでした。

元旦の朝、寝台列車は、青森の雪原を走っていました。
八戸で、そして野辺地で、女の子たちは、降りていきました。
「また東京でね」「○○さんによろしく」と手を振りながら。
終点の青森駅で、最後の女の子と別れました。

あの女の子たち、今頃どうしているだろう、と、毎年大晦日になると想い出します。