久元 喜造ブログ

2020年11月3日
から 久元喜造

福田和也『岸信介と未完の日本』


物心がついた頃は、ちょうどテレビが茶の間に入ってきた時期でした。
祖父母と一緒によくテレビのニュースを見ていたように記憶しています。
偉い政治家が首相官邸や国会などに出入りしていた様子を何となく覚えています。
最初に覚えている総理大臣は、岸信介でした。
あの頃「アンポハンタイ」を叫ぶデモの様子もよく放映されていました。

岸信介がどのような政治家だったのかは、いろいろな文献に出てくるのである程度は知っていましたが、生い立ちから逝去までを記した評伝を読んだのは、本書が初めてでした。
養子に行くことになる幼年期や疾風怒濤の学生時代の話も興味深かったですが、商工省に入ってからの仕事ぶり、上司や周囲との確執などはとても緊迫感がありました。
とりわけ近衛文麿内閣において商工大臣で入閣した小林一三との対立、攻防からは、当時の官僚の政治的な立ち位置が読み取れました。
日本は国家総動員体制へと突き進み、「革新官僚」としての岸信介の行動も綴られていきます。

岸信介の世界観、政策が戦前、戦中、戦後の激動の時代にあって、一貫していたのか、状況の激変の中でどのように変遷していったのかについては、本書からは伺い知ることはできませんでした。
戦後巣鴨プリズンに収監され、釈放されると政治活動を開始、内閣総理大臣にまで上り詰めていく過程が綴られ、そこからは現在の永田町とはまた違ったドロドロした政治ドラマが垣間見えます。
池田勇人内閣の所得倍増政策により日本が経済的な安定・成長に向かうようになるまでの20世紀の日本政治史は、誠に興味が尽きず、その歩みを辿ることは、いろいろな意味で意味があるように感じます。(文中敬称略)

 


2020年10月29日
から 久元喜造

市庁舎2号館、63年の歴史に幕。


神戸市役所庁舎2号館が再整備のために解体されることになり、今日10月29日に「お別れ式典」が行われました。
振り返れば今の2号館は、1957年(昭和32年)、神戸市役所の4代目の庁舎として建設されました。
前年には、神戸市が五大市の一つとして政令指定都市となり、人口は100万を突破して神戸は成長の途上にありました。
当時の風景を思い起こすと、モダンなデザインの市役所が威容を誇り、すぐ隣には花時計が置かれ、傍には姉妹都市のシアトル市から贈られたトーテムポールが建っていました。
周りにはあまり高い建物はなく、当時の神戸を代表するスポットとして人気を集めていたように記憶しています。

1989年(平成元年)には、今の1号館が建設され、2号館となりましたが、神戸市政の中枢としての役割を果たし、神戸の発展を見守り続けました。
1995年(平成7年)1月17日の震災では壊滅的な被害を受け、6階部分は完全に押し潰されて、机や椅子などが外の敷地に散乱したと言います。
余震が続く中、懐中電灯を片手に、危険を冒して書類やデータを取りに行った職員のみなさんもいたと聞いています。
式典で矢田立郎前市長は、「この庁舎は、国際会館、新聞会館とともに、戦災復興の象徴でした」と挨拶されました。
2号館の建物は、63年の間、戦災、震災の苦難を乗り越えてきた神戸市政とともにありました。
改めてこれまでの市政の歩みをしっかり受け継ぎ、先人の苦労を思い起こしながら、新型コロナウイルスとの闘いという試練に立ち向かっていく決意を新たにします。
2号館解体・撤去後には、庁舎のほか、音楽ホール、賑わい施設などが入る新しい施設が建設されます。


2020年10月19日
から 久元喜造

故中内功氏「明りをつけろ」


ダイエーの 故中内功氏 が、震災の後、次のようにおっしゃっていたことを、 Facebook で知りました。
営業をできなくてもいいから、明りをつけろ。
暗いと物騒だし、神戸自体が沈んでしまう。
営業できなくとも、明るいだけで安心感がわくものだ

8年前に神戸市役所に来たとき、節電と経費節減のため、エレベーターホールは消灯していて暗く、正午の合図ですべての部屋は灯りが消えていました。
金がないのだから仕方がないと思っていましたが、やはり余りに暗くては雰囲気も暗くなるのではないか、昼休みに暗がりの中で弁当を食べていては職員のみなさんも元気が出ないのではないかと思い始めました。
市長副市長会議で議論し、庁内のエレベーターホール、廊下などの明りはつけるようにしました。
正午に職場の明りが自動的に消えるのもやめ、多くの職員が出払っているときには消灯することにしました。

中内氏が仰っていたように、「暗いと物騒だし、神戸自体が沈んでしま」います。
残念ながら、神戸の夜の駅前や通りが暗い、というご指摘を何度かいただいたので、駅前や街なかの街灯を増やす取り組みをしています。
兵庫、六甲道(トップの写真)、伊川谷などの駅前がだいぶ明るくなりました。

西神中央、名谷、垂水、灘(上の写真)、甲南山手などの駅前は、単に街灯を増やすだけではなく、それぞれの駅によって規模、内容な異なりますが、より本格的な再整備を行っていきます。
街なかの街灯も、すでにLEDへの付け替えを進めるとともに、暗い道には新しく街灯を設置しています。
中内氏がかつてこのように仰っていたことに意を強くし、スピード感を持って進めていきます。


2020年10月13日
から 久元喜造

『地方自治制度 ”再編論議”の深層』


本棚にあった本書を何気なく手に取り、懐かしくなって読み始めました。
旧知のジャーナリストお二人が、2011年、2012年頃の地方自治制度改革の「深層」を分析されています。
私は、2008年7月から2012年9月まで総務省自治行政局長として、本書で取り上げられている二つのテーマと深く関わりました。

青山彰久さん(当時、読売新聞編集委員)は、大阪都構想 について取り上げています。
2011年11月の大阪府知事・大阪市長ダブル選挙直後の熱気が伝わってきます。
ここでも取り上げられている2012年2月16日の地方制度調査会ヒアリングの模様は、今でも懐かしく想い起します。
西尾勝会長と橋下徹大阪市長とのやりとりは、緊迫感を孕んだものでした。
あれから8 年余りの歳月が流れ、大阪都構想の是非はいよいよ住民投票で決着が図られます。
長く地方自治に携わってきた者として、その結果と今後の動きに注目していきます。

国分高史さん(朝日新聞論説委員)は、野田内閣の「地域主権改革」を取り上げています。
私は、「地域主権」という概念は憲法上問題があり、「地域主権改革」で統一していただくよう掛け合ったことを思い出します。
地域主権改革を進める観点から、国と地方の協議の場が設置されたことは意義があったと思います。
一方、この観点から出先機関改革について盛んに議論が行われましたが、政権内部の政務三役からも反対論が噴出し、前に進みませんでした。
議論はもっぱら民主党内の政治家同士で行われ、実務担当者がこの問題に関わることはほとんどありませんでした。
さらに言えば、国民的議論の広がりを欠いていたとも、今から思えば改めて感じます。


2020年10月5日
から 久元喜造

中央公論:公務員「少国」ニッポン


今月号の中央公論は、タイトルにあるように、公務員の数が少なすぎる、行政のスリム化が行き過ぎているというトーンで特集が編まれています。
たとえば、大阪大学の北村亘教授は、「日本の歳出額と職員数の時系列比較と、行政規模に関する日本と他の主要先進諸国との国家間比較」などに照らすと、「人間で言えば「ダイエットしすぎて拒食症ではないか」という状態」と指摘しておられます。
霞が関、特に厚生労働省の過酷な勤務の実態も取り上げられています。
地方自治体においても、保健所をはじめコロナへの対応を担当した職員の苦労には大きなものがありました。
確かに、公務員数は減り続けており、一部の職場で課題が生じていることは確かだと思います。
しかし、公務員を増やすことは現実的ではないし、適切でもありません。
今後現役世代人口が減り続けるという状況を踏まえれば、国・地方を通じて引き続き職員の削減を図っていく必要があると思います。

このたび策定した神戸市の「行財政改革方針2025」においては、向こう5年間に毎年1%ずつ、合計750人の職員を削減することにしています。(水道局、交通局、教員を除く)
大事なことは、職員の削減が職員の疲弊や士気の低下につながってはならないことです。
公務職場は、忙しい組織とそうでない組織との繁閑の差が大きいことが特徴です。
業務分析をしっかり行い、人員の適切な配置を行っていくことが求められます。
やめる勇気」を持って、効果が上がっていない施策や事業は思い切って廃止すること、DX(デジタル・トランスフォーメーション)を進め、テクノロジーを積極的に導入して仕事のやり方を根本的に改革することも必要です。


2020年9月30日
から 久元喜造

夜の闇の価値について


神戸の夜の道が暗い、というご指摘を何度も受けたこともあり、街灯を増やす作業を進めています。
112の市内の駅前周辺に、約2000基の街灯を増設します。
駅の特性を個々に考えながら、ベンチを増やしたり、植栽を工夫したりして、明るく快適な駅前になるよう、鉄道事業者と相談しながら進めています。
ときどき駅前を訪れますが、建設局などの職員のみなさんの努力により、少しずつ神戸の駅前も変わってきているように感じます。
街なかの街灯についても、現在の設置数の5割程度を増やし、夜の帰宅時などに少しでも安心して歩いていただけるようにしていきます。
既設の街灯は、LEDに取り換えています。
明るさに対する感覚は人それぞれ異なり、各建設事務所で、地域のみなさんのご意見をお聞きしながら作業を進めています。

駅前や通りを明るくすることは大事ですが、とにかく明るくすれば良いというものでもないと思います。
夜の暗闇と静寂には敬意を払う必要があると思います。
夜は、睡眠と休息の時間です。
睡眠と休息には、暗がりが必要です。
もちろん現代の都市は眠ることはなく、24時間活動し続け、眩い光が暗がりを侵食してきました。
明るい光が街を覆い尽くすことになれば、それは、人間にとり必要な安らぎを奪うことになるでしょう。
夜は、瞑想の時間も与えてくれます。
夜半静思。
夜の闇は、魂を孤独しますが、昼の世界では見出しがたい何かに、自分が繋留されていることを感じさせてくれます。
夜の闇の価値と尊厳を尊重しながら、公共空間のおける危険と不安を減らす。
矛盾を孕んだ難しい課題ですが、この矛盾を意識しながら公共空間と向き合うことには意味があると感じます。


2020年9月25日
から 久元喜造

保育枠の拡大を粘り強く進めます。


すでに公表されているところですが、神戸市の令和2年4月1日現在の待機児童数は、52人 で、昨年と比べ、165人の大幅な減少 となりました。
関西2府4県の待機児童数ワースト5はすべて兵庫県内の市となっている一方、神戸市は、逆に減少数がトップです。(日経新聞9月4日記事
令和元年度に、公園を活用した保育所、パーク&ライド型保育所などの新たな取り組みを実施し、約1,400人分の保育所利用定員を拡大した成果が出ていると考えられます。
市役所の各局も、縦割り行政を排し、保育所用地の提供に全面的に協力してくれました。
石屋川公園(東灘区)、王子南公園(中央区)、生田川公園(中央区)などには、新しい保育所などが続々とつくられました。
公園を利用されているみなさんのご理解とご協力に感謝申し上げます。

神戸市はできる限り早期の待機児童解消のため、今年度、さらにはその後もにらんだ保育枠の拡大を進めます。(神戸市は待機児童ゼロへ!
すでに、令和4年4月1日に開所させることができる保育所・幼保連携型認定こども園の新設について、設置運営事業者の募集を開始しています。(保育所・幼保連携型認定こども園の新設
神戸市は、これからも保育枠の拡大を粘り強く進めていきます。
保育士・幼稚園教諭のみなさんへのさまざまなサポートも充実しています。(6つのいいね!
保育士さんの負担を軽減し、子どもたちに向き合える時間をしっかりと取ることができるようにしていきます。
登降園管理や保育記録、保護者との連絡などにICTシステムを活用することができるようにすることとし、令和3年度中に市内すべての施設に導入できるよう進めていきます。


2020年9月20日
から 久元喜造

小山俊樹『五・一五事件』


海軍青年将校たちの「昭和維新」」のサブタイトルにあるように、主役は日本海軍の青年将校たちでした。
1932年(昭和7年)年5月15日夕刻、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生たちは、4組に分かれ、総理大臣官邸で犬養毅首相を銃撃、さらに内大臣官邸、政友会本部、日本銀行、三菱銀行、そして警視庁を襲撃します。
本書では、「日曜日の襲撃」の模様が克明に描かれます。
犬養首相銃撃とその死の様子は、子息の犬養健(当時首相秘書官)、孫の犬養道子(1921 – 2017)などの証言をもとに再現されています。

事件の背後には、海軍将校たちの「国家改造運動」がありました。
主導的な役割を担ったのは、5・15事件の直前、第1次上海事変で戦死した 藤井斉(1904 – 32)でした。
藤井は、海軍軍縮条約に深く失望し、国家改造を唱える頭山満、西田税、さらには北一輝、井上日召、大川周明などと接近、海軍内で昭和維新を断行する青年将校たちを糾合していきます。
藤井に心酔し、事件を決行したのが、海軍中尉の三上卓(1905- 71)、同じく古賀清志(1908 – 97)たちでした。
実行者たちへの処分は、2・26事件と比較しても極めて甘いものでしたが、その背後には、腐敗した政党政治、財閥支配に対する国民の激しい怒りがあったとされます。
首謀者の三上卓は戦中、戦後を生き、1953年の参議院全国区選挙に立候補したことも、初めて知りました。

5・15事件後の背後にあった海軍上層部の思惑と行動、事件後の政治の動きも生々しく描かれます。
事件当時の日本社会のいわば体温のようなものがひしひしと伝わってきて、興奮を覚えました。(文中敬称略)


2020年9月14日
から 久元喜造

情報の受け手のことを考えてください。


教育委員会事務局が学校現場に対して、半年弱に、3687件ものメールを送っていた問題は、いろいろなことを考えさせてくれます。
根本的には、情報の出し手が情報の受け手のことを慮っていないところに問題があるのではないかと思います。
総合教育会議でも申し上げたのですが、メール群を受け取る校長先生や教頭先生がこれだけの量を読み切れるのかということです。
もし読み切れているとしても、人間の時間は限られていますから、メールの処理に忙殺され、子どもたちと向き合う大切な時間が奪われているとしたら悲しいことです。

また、メールの受け手が一人あるいは限られている一方、送り手が多数の部局にまたがっていると、送る側から見ればそんなに多くのメールではないかもしれないが、受け手には膨大な数のメールが届いてしまうことになります。
事務局の中の調整が必要です。
個々のメールについても、zip ファイルに多数のファイルが添付されていて、膨大な文書を読まなければいけないという話も断片的に聞いています。
文部科学省から送られてくる通知を事務局が咀嚼してポイントを的確、簡潔に伝えることも、コロナへの対応を考えれば大事な視点ではないかと思います。
通知文書が簡潔でわかりやすいかという点も重要です。
どちらでもとれるような曖昧な表現に終始し、問い合わせなければわからないというような状況があるとすれば、これも問題です。

総合教育会議の翌々日には、民間出身(金融機関、電機メーカー、報道機関)の調査官3名を任命し、調査に当たってもらうことにしました。
今月中には調査を終え、具体的な改善に結び付けることができるようスピード感を持って進めます。


2020年9月5日
から 久元喜造

木田元『ハイデガー「存在と時間」の構築』


マルティン・ハイデガー(1889 – 1976)の『存在と時間』は、一度は読んでみたいと思いながら挑戦しかったのは、難解で知られた著作であり、どうせ読んでもわからないだろうと思っていたからでした。
木田元(1928 – 2014)は、未完の書であった『存在と時間』をハイデガーの意図に従って再構築しようとします。
この試みが成功したのかどうかは別として、この作業の意図と過程を記した本書を読み、ほんの少しだけ『存在と時間』に近づくことができたように感じました。

本書が比較的読み易かったのは、木田が『存在と時間』に出てくる基本的概念の説明に際し、ドイツ語などの原語の意味、ときには語感を含め丁寧に説明してくれているからです。
『存在と時間』の重要な意図は、「古代存在論の伝承的形態を解体」することにありました。
そこで、古代存在論の存在概念の考察から始まり、アリストテレス、スコラ哲学、デカルト、カントと続く西洋哲学の系譜が批判され、その解体が目指されるのですが、木田は、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語の原語の意味、語感を示しながら分析してくれます。
私のような哲学の素人には、このような説明はとてもありがたいものでした。
もし、個々の訳者が深い思索の上に選んだ日本語であっても、訳語だけからは原文にたどり着くことはできなかったと思われるからです。
このことは、外国文学の邦訳においても言えることですが、『存在と時間』のような難解な哲学書においてはいっそう当てはまります。
本書を読了して、いくつか出ている邦訳を読んだとしてもきっと理解できなかったであろうと改めて確信し、いつか本書を再読したいと感じました。