久元 喜造ブログ

2021年1月10日
から 久元喜造

小熊英二『社会を変えるために』

本書を読んだきっかけは、2016年に起きた軽井沢スキーバス転落事故でした。
報道によれば、この事故で亡くなった学生の遺品から本書が見つかったとのことでした。
帯には、「広く、深く、「デモをする社会」の可能性を探った本」とあります。
デモばかりを奨励するしているのではなく、一人ひとりの行動をどのようにして運動のうねりに結び付けていくのかがさまざまな観点から語られます。
本書でまず論じられるのは戦後の社会運動で、とくに占領下からの労働運動、安保反対運動、全共闘、ベトナム反戦運動の特徴や背景が詳しく論じられます。
連合赤軍事件などを思い起こしながら、興味深く読み進めました。
続いて、ギリシャ哲学から始まる西欧思想についてわかりやすく語られ、我が国における社会運動と関連付けて論じられているのが本書の特徴です。
古代ギリシャ哲学、デカルト、ニュートン、ルソー、アダム・スミス、ベンサムなどの思想が本書の文脈と関連付けながら、一連の流れとして分かり易く説明されます。
近代自由民主主義とその限界についても語られます。

その上で著者は、参加と運動を推奨するのですが、「運動のやり方に、決まったかたちはありません」と断った上で「政治家や官僚の人とも、話をするのはいいことだ」とも指摘されます。
「政治家や官僚は悪魔ではありませんが、神様でありません」-確かにそのとおりです。
最後に「運動のおもしろさは、自分たちで「作っていく」ことにあり」、「楽しいこと、盛り上がることも、結構重要です」と締めくくられます。
確かに、社会を変えていく上で、それが「楽しい」ものであることは、我が国の社会風土との関連においても重要だと感じます。


2021年1月2日
から 久元喜造

コロナとの闘いが続きます。


昨年5月下旬、市内のコロナ感染者ゼロの日が続くようになり、緊急事態宣言の対象地域から兵庫県が除外された頃、庁内の対策本部会議を開き、基本的に次のような認識を共有しました。

・コロナの感染はこれで収束したわけではなく、感染が収束している時期、そして再び感染が拡大する時期が交互に訪れ、最終的に収束する時期が訪れるだろう。
・この「ポストコロナの時代」がいつ到来するかは誰にもわからないから、それまで我々は、コロナウイルスが存在していることを前提とした「with コロナの時代」を生き抜いていかなければならない。
・そこで、再度の感染拡大に備え、これまでの対応を検証して報告書を作成し、これを踏まえて対策を実施する。

検証作業を行うため、当時の寺崎秀俊副市長を中心とした検証チームが設けられました。
作業は急ピッチで進めれられ、7月7日に公表されました。(検証結果報告書
この報告書は、感染と対応の状況を時系列に記録し、各分野における対応と課題をとりまとめるとともに、「次なる波への備え」にも踏み込んだ詳細なものです。
神戸市のその後の対応は、この報告書に基づき、状況の変化を踏まえながら行われてきました。

昨年を振り返ると、その後の状況は、5月に想定したとおりの経過をたどったように思います。
神戸市内の新規感染者は、昨日の元日が32件、大晦日が41件で、感染が続いています。
状況に応じて機敏に対応するとともに、今年も、with コロナの時代が続くことを前提に、腰を据えて対応していくことが求められます。
全国の感染状況にも注意を払いながら、今年も緊張感を持ってコロナウイルスとの闘いを続けていきます。


2020年12月14日
から 久元喜造

都染直也『ことばのとびら』


甲南大学文学部日本語日本文学科・都染直也教授のご著書です。
都染先生が主宰される甲南大学方言研究会は、このほど令和2年度神戸市文化活動功労賞を受賞されました。
本書の内容は、映画『砂の器』で重要な意味を持つ東北弁に関する検証など多岐にわたりますが、興味深かったのは、神戸をはじめとする関西圏における方言の研究です。
大阪弁と神戸弁の境界は、東灘区本山町と御影町の間にあるそうです。
また、関西弁地域は神戸をはじめとする摂津地域であり、同じ兵庫県内でも姫路などの播州では関西弁とは異なる播州弁が使われ、その違いは敬語表現にあると説明されます。
「べっちょない」は、播州弁を代表する言葉であることは私も知っていましたが、淡路、丹波でも使われているそうです。
神戸市内でも、西区などでは「べっちょない」と話す方にときどき出会います。
神戸市内でも、地域によってかなり異なる言葉が使われていたのでしょう。

フィールドワークも活発に行われ、その成果が紹介されています。
たとえば、JR山陽本線、播但線、神戸線の各駅毎に「ハラガタツ」「ハラタツ」「ゴーガワク」「ゴガワク」「クソッパラガタツ」などがどこで使われているのか調査されました。
年代によっても言葉遣いがかなり異なることがわかります。

本書は、神戸新聞夕刊の連載をもとにまとめられ、2006年(平成18年)に出版されました。
「はじめに」で著者は、「ことばは生き物で、常に変化をつづけています」と記しておられます。
本書が刊行されてからそんなには経ちませんが、関西の言葉も既に刊行時とは少し違ったものになっていると思います。
そしてこれからも変化していくことでしょう。


2020年11月26日
から 久元喜造

不祥事に研修一辺倒は正しい選択か。


市役所で私に対する説明のかなりの部分を占めるのが、残念ながら、懲戒処分事案など職員の不祥事、情報漏洩、誤った会計処理など不適切な事務処理です。
担当幹部も手慣れたもので、説明は淡々と進められます。
私が激高することがないのを見透かしたかのように。
もちろんこれら事案が続発するのは最終的には市長の責任です。
このような事案が起きないようにしていかなければなりません。

不祥事案の防止対策として決まって出されるのが、 研修の強化 です。
さまざまな研修が入れ替わり行われています。
しかし、研修の強化は最善の対策でしょうか。
少し前に、宝塚市立の中学校で体罰という名の暴力行為がありましたが、この教諭は以前に体罰で3回も処分を受けていたそうです。
報道によれば、この教諭は今回の事件のすぐ前に市教委の研修を受けていたといいます。
少なくとも、この事件においては研修は効果がなかったと言えます。

国でも、自治体でも、問題を起こす職員・社員はごく一部です。
そして世間をにぎわすような不祥事件が起きると、幅広い職員を対象に研修が行われます。
以前、知り合いの幹部が指定職に昇進したので立ち寄ったところ、最初の仕事は、セクハラ防止研修の受講だったと言っていました。
某省事務次官がセクハラで辞職した後、指定職に昇進した幹部はまずセクハラ防止研修を受けることになったとのだそうです。
研修が不要とは申しませんが、これで元気が出るのだろうかと複雑な思いに駆られました。
ものが言い易い職場環境づくり、上司と部下との風通しのよい関係の構築、そして問題を起こした職員の厳正な処分など研修以外にやるべきことはまだまだあるように感じます。


2020年11月23日
から 久元喜造

井上岳一『日本列島回復論』


著者の井上岳一さんは、農林水産省出身で、現在㈱日本総研ご勤務。
先日、東遊園地で開催された “FARM to FORK”で、対談させていただきました。
本書で井上さんは、「山水郷」という言葉を使われます。
「日本国・日本人のアイデンティティを語る上で、山水郷を抜きにはできない」と。
里山に代表される「山水郷」がそれぞれの地域の財産であるという次元を超えて、グローバル社会の中でも大きな価値を持つことが説得力を持って語られます。

残念ながらその「山水郷」の荒廃が進んでいます。
里山は「野生の王国」になりました。
本書が刊行されたのは昨年の10月ですが、クマの被害に関する記述は、今年相次いでいるクマの異常な出没と人的被害を予言していたかのようです。(11月12日のブログ
次は八王子、厚木、秦野のような都市がクマの出没地になる可能性が高い、という専門家の見解も示されます。
もはや人間が野生生物のコントロールをすることができず、予測不能な事態に陥っているという現実は衝撃的です。
このような「山水郷」の荒廃は、日本の魅力の衰退につながる、と著者は指摘します。
コロナ禍が始まる前、インバウンド観光客の多くが日本らしい風景に魅力を感じていたことを想起すれば、著者の指摘は決して大げさではありません。

どうすればよいのか。
各地で進むさまざまな再生への取り組みが紹介されます。
山水郷の復権に向けた試みです。
もちろん本書では触れられていませんが、「山水郷」での暮らしの価値は、with コロナの時代に適合する形で高まり、ポスト・コロナの時代には確固たるものになるのではないかという予感のようなものを感じました。


2020年11月12日
から 久元喜造

クマの襲撃は他人ごとではない。


全国でツキノワグマの被害が相次いでいます。
11月3日の毎日新聞に興味深い記事が出ていました。
人間を恐れない「新世代クマ」が出現しているというのです。
これまでの定説では、ツキノワグマは用心深い性質で、鈴などを鳴らし人がいることを知らせると、人との遭遇を避けるとされてきました。
記事によれば、最近のクマは車などの人間社会の音にすっかり慣れていて人を恐れないといいます。
人を恐れず、襲うようになっているのです。
その原因は、もともと人が暮らしていた里山から人が離れて荒廃し、ここが「若いクマの生息域になり、人の生活圏に暮らすようになった」からだそうです。

神戸にはツキノワグマはいませんが、神戸でも里山が荒廃し、動物たちの生息域が変わってきていることは確かです。
神戸近辺では見かけなかったニホンジカが県北部から南下し、市内でも確認情報が相次いでいます。
ニホンジカは、植生に被害を与え、ヤマビルなどを運ぶ有害な動物で、市内侵入を食い止める必要があります。
近年は、定点観測を行い、警戒態勢を強化しています。
ニホンジカに続いて、ツキノワグマが南下し、市内で被害が出るような事態は食い止めなければなりません。
有馬の温泉街にツキノワグマが現れ、パニックになるような事態は悪夢です。
ニホンジカ、ツキノワグマといった有害鳥獣が広がる背景の一因は里山の荒廃にあります。
里山の再生は、生態系の維持からも重要な課題です。
里山は、白神山地のような原生林とは異なり、人の手が入ることで創り上げられてきました。
里山は神戸の貴重な財産です。
たくさんのみなさんの参画をいただき、神戸の豊かな里山の再生を図っていきましょう。


2020年11月8日
から 久元喜造

吉村 昭 『破船』


昨日の朝日新聞読書欄に本書が紹介されていました。
パンデミックの今、世界で読まれているのだそうです。
私が読んだのは20年以上も前ですが、その衝撃は鮮やかに覚えています。
ちょうど先日、神戸大学から図書の推薦を依頼され、本書を挙げておきました。

恐らく江戸時代後期、岬にある閉ざされた村が舞台です。
村は貧しく、家族を飢えから守るため身売りが行われていました。
そんな村の絶対に漏らしてはならない秘密。
それは、夜遅く塩焼きの火を燃やし、灯りに引き寄せられて岩礁で難破する船の積み荷を奪う風習でした。
船乗りたちは村人により全員が殺され、積み荷は村人にささやかな富をもたらします。
村人たちが座礁船を「お船様」と呼ぶ所以です。
「お船様」がやってきた年は、身売りをしなくてもすむのです。

ある晩、村に一艘の船がやってきます。
その船には20人ほどが乗っていて、いずれも赤いものを身に着け、死に絶えていました。
着物が赤、帯、足袋も赤、そして柱に赤い猿のお面がかけてありました。
そしてどの骸にも吹き出物のようなものが無数にありました。
赤い着物は贅沢品で貴重です。
村おさは、逡巡しながらも赤い着物を骸からはがさせ、幼い女児と女たちに与えるよう命じます。
それは村人たちがたどることになる過酷な運命の始まりでした。
村落共同体を率いる村おさが下した究極の決断とは・・・

四季折々の季節の移ろい、そして季節ごとに訪れる海の幸の様子が柔らかな筆致で描かれます。
「茅の尾花が穂をのばし、その頃、磯に寄ってくる小さい尾花蛸もとれはじめている」
美しい自然の光景描写が、最果ての村を襲った悲劇をより一層際立たせているように感じます。


2020年11月3日
から 久元喜造

福田和也『岸信介と未完の日本』


物心がついた頃は、ちょうどテレビが茶の間に入ってきた時期でした。
祖父母と一緒によくテレビのニュースを見ていたように記憶しています。
偉い政治家が首相官邸や国会などに出入りしていた様子を何となく覚えています。
最初に覚えている総理大臣は、岸信介でした。
あの頃「アンポハンタイ」を叫ぶデモの様子もよく放映されていました。

岸信介がどのような政治家だったのかは、いろいろな文献に出てくるのである程度は知っていましたが、生い立ちから逝去までを記した評伝を読んだのは、本書が初めてでした。
養子に行くことになる幼年期や疾風怒濤の学生時代の話も興味深かったですが、商工省に入ってからの仕事ぶり、上司や周囲との確執などはとても緊迫感がありました。
とりわけ近衛文麿内閣において商工大臣で入閣した小林一三との対立、攻防からは、当時の官僚の政治的な立ち位置が読み取れました。
日本は国家総動員体制へと突き進み、「革新官僚」としての岸信介の行動も綴られていきます。

岸信介の世界観、政策が戦前、戦中、戦後の激動の時代にあって、一貫していたのか、状況の激変の中でどのように変遷していったのかについては、本書からは伺い知ることはできませんでした。
戦後巣鴨プリズンに収監され、釈放されると政治活動を開始、内閣総理大臣にまで上り詰めていく過程が綴られ、そこからは現在の永田町とはまた違ったドロドロした政治ドラマが垣間見えます。
池田勇人内閣の所得倍増政策により日本が経済的な安定・成長に向かうようになるまでの20世紀の日本政治史は、誠に興味が尽きず、その歩みを辿ることは、いろいろな意味で意味があるように感じます。(文中敬称略)

 


2020年10月29日
から 久元喜造

市庁舎2号館、63年の歴史に幕。


神戸市役所庁舎2号館が再整備のために解体されることになり、今日10月29日に「お別れ式典」が行われました。
振り返れば今の2号館は、1957年(昭和32年)、神戸市役所の4代目の庁舎として建設されました。
前年には、神戸市が五大市の一つとして政令指定都市となり、人口は100万を突破して神戸は成長の途上にありました。
当時の風景を思い起こすと、モダンなデザインの市役所が威容を誇り、すぐ隣には花時計が置かれ、傍には姉妹都市のシアトル市から贈られたトーテムポールが建っていました。
周りにはあまり高い建物はなく、当時の神戸を代表するスポットとして人気を集めていたように記憶しています。

1989年(平成元年)には、今の1号館が建設され、2号館となりましたが、神戸市政の中枢としての役割を果たし、神戸の発展を見守り続けました。
1995年(平成7年)1月17日の震災では壊滅的な被害を受け、6階部分は完全に押し潰されて、机や椅子などが外の敷地に散乱したと言います。
余震が続く中、懐中電灯を片手に、危険を冒して書類やデータを取りに行った職員のみなさんもいたと聞いています。
式典で矢田立郎前市長は、「この庁舎は、国際会館、新聞会館とともに、戦災復興の象徴でした」と挨拶されました。
2号館の建物は、63年の間、戦災、震災の苦難を乗り越えてきた神戸市政とともにありました。
改めてこれまでの市政の歩みをしっかり受け継ぎ、先人の苦労を思い起こしながら、新型コロナウイルスとの闘いという試練に立ち向かっていく決意を新たにします。
2号館解体・撤去後には、庁舎のほか、音楽ホール、賑わい施設などが入る新しい施設が建設されます。


2020年10月19日
から 久元喜造

故中内功氏「明りをつけろ」


ダイエーの 故中内功氏 が、震災の後、次のようにおっしゃっていたことを、 Facebook で知りました。
営業をできなくてもいいから、明りをつけろ。
暗いと物騒だし、神戸自体が沈んでしまう。
営業できなくとも、明るいだけで安心感がわくものだ

8年前に神戸市役所に来たとき、節電と経費節減のため、エレベーターホールは消灯していて暗く、正午の合図ですべての部屋は灯りが消えていました。
金がないのだから仕方がないと思っていましたが、やはり余りに暗くては雰囲気も暗くなるのではないか、昼休みに暗がりの中で弁当を食べていては職員のみなさんも元気が出ないのではないかと思い始めました。
市長副市長会議で議論し、庁内のエレベーターホール、廊下などの明りはつけるようにしました。
正午に職場の明りが自動的に消えるのもやめ、多くの職員が出払っているときには消灯することにしました。

中内氏が仰っていたように、「暗いと物騒だし、神戸自体が沈んでしま」います。
残念ながら、神戸の夜の駅前や通りが暗い、というご指摘を何度かいただいたので、駅前や街なかの街灯を増やす取り組みをしています。
兵庫、六甲道(トップの写真)、伊川谷などの駅前がだいぶ明るくなりました。

西神中央、名谷、垂水、灘(上の写真)、甲南山手などの駅前は、単に街灯を増やすだけではなく、それぞれの駅によって規模、内容な異なりますが、より本格的な再整備を行っていきます。
街なかの街灯も、すでにLEDへの付け替えを進めるとともに、暗い道には新しく街灯を設置しています。
中内氏がかつてこのように仰っていたことに意を強くし、スピード感を持って進めていきます。