久元 喜造ブログ

2014年1月1日
から 久元喜造

神戸の元旦

平成26年の元旦は、午前2時過ぎから、生田神社、湊川神社、長田神社に、家内とともにお参りしました。
真っ暗でしたが、初詣のみなさんがたくさん来られていました。
それぞれに、子どもの頃から、想い出がある神社です。
心を込めて、参拝させていただきました。

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なぜか、心に響いてきたのは、巫女さんが頭上から降り注いでくださった鈴の音です。実に細やかに、幻想的に、響いてきました。
そのとき、なぜかわかりませんが、皇后陛下のお言葉が思い出されました。それは、美智子皇后が、子どもの頃の読書の想い出を語られたときのお言葉です。
美智子皇后は、こう語っておられます。

「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ、人と人との関係においても。国と国との関係においても」

第26回IBBYニューデリー大会基調講演

意図せざる鈴の音の、妙なる調べの中に、何か、人を感じさせるところがあったのかもしれません。

そういえば、今年は、午年で、私も、恥ずかしいながら年男です。
世界は、複雑で、不可思議で、奥行きが深く、いつも謎に満ちています。
私は、馬齢を重ねているのに、私たちを取り巻く世界の広さ、深さ、そして、その恐ろしさとともにある魅力について、感じることができてきたのだろうかと、改めて自問自答します。
そのような問いと答えの反復は、今年も繰り返されることでしょう。私は、永遠に、明確な答えを得ることはできないかも知れませんし、ある種の得心も、その対極にある諦念にも、達することができないかもしれません。
そうであったとしても、今年、生きてこの世にあり、自分の周りにある世界を感じ続けていくことができる幸福を、巫女さんが降り注いでくださる鈴の音を聴きながら、感じることができたのでした。

とても、ありがたい年の初めを過ごさせていただくことが出来、感謝しております。


2013年12月31日
から 久元喜造

『八重の桜』劇中音楽 ― 私が好きな曲⑤

大晦日ですね。
今年は、昨年の大河ドラマ『平清盛』に引き続き、『八重の桜』を見るのが楽しみでした。毎回、録画し、何とか時間を見つけて見てきたのですが、残念ながら、あと3回残してしまい、今年中に最終回にはたどりつけませんでした。
ドラマ自体、とても楽しめましたし、感動したり、考えさせられたりすることが多かったのですが、ドラマの中の音楽も、たいへん素晴らしかったと思います。
音楽を担当されたのは、作曲家の中島ノブユキさん。
1969年生まれ、群馬県出身の作曲家です。ピアニストでもあり、ソロ・アルバムもリリースされているようです。

中島ノブユキさんの音楽は、心にしみ入るような美しい旋律が特徴です。素晴らしいメロディーメーカーです。
『輝かしい未来へのエール』と題されたは、ドラマの中の大事な場面でよく登場していた曲です。

コラール風の名曲で、管楽器が効果的に使われています。
曲の内容はもちろん異なりますが、この曲を初めて聴いたとき、映画『アマデウス』でも使われていた、モーツァルトの管楽器のための作品『グラン・パルティータ』第3楽章を一瞬、想い起こしました。

この曲以外にも、曲想が異なる素晴らしい曲がふんだんに使われ、ドラマを効果的に盛り上げていたように思います。
同時に、音楽がそれぞれのシーンと見事に融合していたせいでしょうか、音楽が前に出すぎたり、ましてや耳障りになることはまったくありませんでした。
音楽がやたらうるさくて、台詞が聞き取れないことすらあるのは、映画でもしばしばあることです。
そういえば、山田洋次監督の『東京家族』を、昨日DVDで楽しみましたが、久石譲さんの音楽がきわめてひかえめに使われていたのが印象的でした。

中島ノブユキさんは、劇中音楽の役割をよく理解されているのでしょう。
今後、さまざまな分野でのご活躍をお祈りいたします。

 


2013年12月30日
から 久元喜造

高田屋旭店一色屋

きのうは、久しぶりにゆっくりとした休日となり、 家内と近傍の散策を楽しみました。
まず、阪急六甲の八幡神社にお参りします。
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都賀川を渡り、水道筋はずれ、灘温泉近くの「高田屋旭店一色屋」へ。
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このお店も久しぶりです。
常連さんに長く愛されてきた、本格的な居酒屋です。
ケースの中には、酒の肴になりそうなお皿が並びます。
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まずは、ビールとともに、「焼き穴子」、「鰯の生姜煮」を注文。
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すぐに、燗酒に切り替え、「出汁巻き玉子」、「きずし」などを追加注文。
レンジではなく、しっかりとお湯で温めてくれます。少し熱燗の仕上がりとなりました。
熱燗にはおでん、ということで、玉子、大根、こんにゃく、いとこんを盛り合わせてもらいます。
「ごまめ」、「海鼠」で打ち止め。
とりわけ、海鼠は、赤海鼠で、なかなか絶品でした。

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年内の営業はこの日までだったようで、ご常連さんは、「佳いお年を」と声をかけて帰られます。
とても温かく、満足した気分で、お店を後にしました。


2013年12月26日
から 久元喜造

関西広域連合に出席

きょうは、市長に就任して、はじめて、関西広域連合の会議に出席しました。

会議は、まず、公開の委員会、そして、非公開の打ち合わせ、その後、経済界や議会議員のみなさんも出席されたパーティーと続きました。
会議が始まる前に、構成員の全員がそろったと言うことで、記念撮影。

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左から、橋下大阪市長、門川京都市長、松井大阪府知事、山田京都府知事、嘉田滋賀県知事、井戸兵庫県知事(関西広域連合連合長)、仁坂和歌山県知事、平井鳥取県知事、飯泉徳島県知事、竹山堺市長、私です。

非公開の打ち合わせでは、地方整備局の権限移譲が主たるテーマでした。私は、麻生内閣、鳩山内閣のときに、この問題にさんざん関わりましたが、とにかく新参者ですので、発言は遠慮しました。
そんなに簡単なテーマでないことだけは間違いありません。
国から地方への権限移譲が、国民生活にとり、目に見える形でよいことなのだということを理解してもらうことが大切です。

 

 


2013年12月21日
から 久元喜造

「光」を追い求めた画家・菅原洸人

画家・菅原洸人の存在を知ったのは、11月14日の神戸新聞の記事でした。

「哀愁漂うパリの情景やキリスト像を描き続けた洋画家菅原洸人(すがわらこうじん)さんが亡くなった。91歳だった。病に苦しみ、放浪の果て、神戸に安住の地を見つけた。描くのは厚塗りの大胆のタッチの油彩画。画布に「光」を追い求めた人生だった」

記事には、『モンマルトルの石段』と題された絵が掲載されていました。新聞記事の中の小さな写真で、しかも白黒ですから、単なる雰囲気しかわからなかったのですが、なぜか惹かれるものがありました。

菅原洸人は、1922年、山形県に生まれました。幼少時に北海道へ養子に出されますが、養子先を飛び出し、船員や印刷工などを経験しました。やがて結核を患い、死を覚悟しながら、各地を放浪し、1953年、神戸に定住先を見つけます。
絵を志し、市民美術教室で、小磯良平、小松益喜に師事しました。そして、職業画家への道を歩んでいったようです。
先ほどの記事によれば、1970年に初めて渡欧。石造りの欧州の街並みや文化に魅せられ、とりわけ、パリの街角や人々を生涯の画題としました。路地裏の風景や辻楽士、道化師を好んで描きました。

私は、先日、神戸市立博物館で、生前、菅原洸人から寄贈された絵を何点か見せていただきましたが、それらの中に、昭和30年代の神戸を描いた素描がありました。

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「三の宮駅東問屋」の文字が読め、三宮駅東側の、かつて国際マーケットと呼ばれたあたりかと思われます。

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正確な位置はよくわかりませんが、この「藤ホテル」のあたりがお気に入りだったようです。

12月に入り、婦人市政懇談会の総括集会が垂水区役所で開かれました。博物館で、菅原洸人の絵の一点が垂水区長室に飾られていることを聞いていましたので、さっそく見せていただきました。、ヴェネツィアの風景を描いた絵でした。

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いつの日か、菅原洸人の作品を集めた展覧会が開催されることを期待したいと思います。(敬称略)


2013年12月16日
から 久元喜造

懐かしの神戸電鉄車両

神戸電鉄でかつて活躍し、引退した車両が、カコテクノス  の小野工場で展示されています。
この車両は、神戸電鉄で約40年間活躍し、2011年3月に廃車になった1100系1117号のようです。

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鈴蘭台から湊川の旧川池小学校に通い、また、箕谷の山田中学校に通ったときに乗った、懐かしい車両です。

このカラーデザインの車両を初めて見たのは、確か、小学校に入学した昭和35年より少し後。場所は、鵯越でした。
鵯越の山道に、祖父によれば、「山の神さん」を祀っていました。鵯越駅から、坂道を上り、山道に入った途中に、その「山の神さん」は、祀られていました。
その場所からは、渓流をはさんで、眼下に、神戸電鉄の線路が見えました。

物心ついたときの神戸電鉄の車両は、昭和の初期に製造された、焦げ茶色の古いものでした。運転席のすぐ後ろに陣取り、車両のプレートや運転席のメーター、運転手の動作などを見るの好きでした。

ある日、「山の神さん」から、眼下を見下ろしていると、見たこともない電車がトンネルを抜けて、走ってきたのです。
たいへん、驚きました。それは、それまで知っていた、焦げ茶色の車両とはまったく違う、颯爽とした、度肝を抜くような斬新なものだったからです。
一瞬、神戸電鉄とは違う、まったく新しい電車の路線が出来たのかと思えるほどでした。
それが、この、灰色とオレンジのカラーデザインの車両でした。
もっとも、この写真のような、3つの窓があるタイプではなく、2つの窓がある車両だったと記憶しています。

あるパーティーで、神鉄の方に、車両のデザインのお話をしたところ、さっそく、上の写真を送ってくださいました。
心より、御礼を申し上げます。

 


2013年12月14日
から 久元喜造

金盃 森井本店

11月24日のブログ で、東京・大塚の「江戸一」のことを書いたところ、神戸にも、味のある居酒屋がありますよ、と教えていただいたのが、「金盃 森井本店」です。
昨日、市役所の若手のみなさんと飲んだのですが、幹事がセットしてくれたお店が、たまたま「金盃 森井本店」で、ラッキーでした。
三宮から西に少し歩いた、高架下にあります。

玄関の引き戸を開けると、そこは、昭和の香りのする居酒屋の世界。
1階はカウンターで、2階には、いくつかのテーブルと座敷があります。個室の座敷はひとつしかなく、幹事がかなり無理を言って予約してくれたようです。
昔の旅館を思わせるつくりで、ゆったりと寛げます。
2階なので、すぐ上に電車がひんぱんに走っているはずなのですが、不思議なことに、そんなにうるさくはありません。

さっそくキリンのクラシックラガーを注文。
メニューを見ると、何と、玉ひも煮があるではありませんか。さっそく注文したのですが、売り切れとの返事にがっくり。焼き鳥にはあるのとのことでしたので、迷わず頼んだのですが、しばらくするとお店の方が上がってきて、「焼き鳥も終わりました」とのことで、玉ひもとのご対面は、次回に持ち越しになりました。

焼き鳥盛り合わせ、おでん、鰺の昆布締め、鰺の松前漬け、湯豆腐などを次々に注文。
酒は、常温の冷やを頼みました。

若手のみなさんと大いに盛り上がった、金曜日の夜でした。


2013年12月9日
から 久元喜造

荷風『断腸亭日乗』中の西林寺

今となっては、ずいぶん以前のことのように思えるのですが、選挙の時、新聞社から候補予定者にアンケートがよく来ました。その中に、愛読書について記す欄があり、迷わず、永井荷風の『断腸亭日乗』と記したのを覚えています。

愛読書としては、松本英昭『逐条 地方自治法』(学陽書房)など、折に触れて紐解く地方自治の著作はあるのですが、何ヶ月か一度、戦前の時代背景とか、支配的な思潮や異端の論調とか、グルメや風俗とか、東京の街並みとか、人々の行動様式とかを知りたくなったり、何か考えごとをしていて、ふと、素朴な疑問が出てきたときに、『断腸亭日常』には、何と記してあったのだろう、となることがときどきあるのです。
『断腸亭日常』には、ついつい、どこでもいいから、頁を開いてみたくなるようなところがあります。

永井荷風といえば、政治や社会に背を向け、極私的世界に耽溺した、孤高の傍観者というイメージが強いのですが、『断腸亭日乗』を読むと、永井荷風が、政治や社会に対して常に強い関心を持ち、強烈な批判精神を持っていたことがよくわかります。
官吏もしばしば登場し、容赦なく槍玉に上がっています。

荷風が描いた街の佇まいは、ほとんどが東京でしたが、昭和20年6月、東京が焼け野原になり、荷風は、汽車で西に向かいます。

「六月初三。列車中の乗客われ人ともに列車進行中空襲の難に遭はむことを恐れしが、幸いにもその厄なく午前六時過京都駅七条の停車場に安着す。夜来の雨もまた晴れ涼風習々たり、直に明石行電車に乗り換へ大坂神戸の諸市を過ぎ明石に下車す」

明石で逗留したのは、西林寺でした。

「西林寺は海岸に櫛比する漁家の間にあり、書院の縁先より淡路を望む。海波洋々マラルメが『牧神の午後』の一詩を想起せしむ。江湾一帯の風景古来人の絶賞する処に背かず」
と、その風景を褒め称えています。


2013年11月30日
から 久元喜造

美智子皇后・インドへの旅

天皇皇后両陛下が、インドへの旅に出発されたというニュースに接しました。
両陛下は、皇太子夫妻時代の1960年にインドを訪問されており、53年ぶりのインド訪問とのことです。

天皇陛下は、インド訪問にあたり、ご感想を公にされていますが、その中で、かつてのインド訪問について触れられ、
「皇后はかつて学生時代にネルー首相の「父が子に語る世界歴史」に出会っており,ネルー首相との会話は非常に心に残ることであったと思います」
(As a student, the Empress had encountered Glimpses of World History, a book written by Prime Minister Nehru in the form of letters he had sent to his daughter Indira, and I am sure the Empress has a lasting memory of Her conversations with him.)
と述べておられます。

当時皇太子ご夫妻がインドに訪問されたとき、インド首相であったネルーは、かつて英国との独立闘争を率いた英雄でした。ネルーは、英国官憲の手で、何度も投獄され、獄中で娘のインディラに宛て、膨大な数の手紙を書き送り、世界の歴史を語り続けました。
そして、これら約200通の手紙は、後に、「父が子に語る世界歴史」として、まとめられ、刊行されました。
美智子皇后は、学生時代、この著書を読まれたものと思われます。

私は、小学生のとき、子ども向きに編集され、1冊にまとめられたネルー著「父が子に語る世界歴史」を読みました。なぜか、この本の中の、
「ひとりでいることは、とても危険なことだ。人間にとっても、国にとっても」
という一節が記憶に残っています。
日本の歴史についても、記されていて、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康も登場しました。ただ、学校で習った内容とは、かなり違った印象でした。

1998年、NHK教育テレビで、美智子皇后の講演が放映されました。この講演は、インドで開催された国際児童図書評議会 でのビデオによる講演で、英語で行われました。
タイトルは、「子供の本を通しての平和-子供時代の読書の思い出-」。
美智子皇后が、少女時代に読まれ、心に刻まれた読書の記憶を語られたものでした。
私は、その高度な内容と奥行きの深さに驚嘆したことを、鮮明に覚えています。番組はビデオに撮り、DVDに変換して、大切に保存しています。

天皇皇后両陛下のインドへの旅が、懐旧に抱かれ、実り多いものであることをお祈りしたいと思います。


2013年11月24日
から 久元喜造

大塚「江戸一」のこと。

2ヶ月以上前のことになりますが、9月21日の朝日新聞に、「酒徒が集う店」というエッセイがありました。書き手は、居酒屋探訪家の太田和彦さんです。
「私の思う東京居酒屋御三家は、根岸「鍵屋」、湯島「シンスケ」、大塚「江戸一」。」

この3軒は、よく知っていますが、一番通ったのは、「江戸一」でした。このエッセイでも、もっぱら「江戸一」のことが取り上げられていました。

「江戸一の、コの字に店内を一周する樹齢600年の厚いカウンターに座ると、銘々盆が置かれるのが、この店の特徴を表す。すなわち基本は独酌。事実ここは一人客がたいへん多い。好みの酒と肴を盆に置き、無念無想。天井を仰いだり、次は何にするかと品書き札を見ている。群れて飲むのではなく、独酌をできるのが大人だ。したがって店内は満員でも静か。連れと話すのも、その人にだけ聞こえればよい小声。小声で話すのも大人の行儀だ。」

この店の雰囲気が見事に表現されている文章だと思います。あえて付け加えれば、BGMはなく、静かなるざわめきが店内を包んでいるとでも言えましょうか。

私は、20代の頃から、30年以上、「江戸一」に通ってきました。家内や友人と一緒に飲むこともありましたが、一人で訪れ、独酌するのも楽しみでした。
太田さんは、「徳利の本数が過ぎると「もう帰んなさい」と女将がしゃっと算盤を入れる」と書いておられますが、まさに、そういう光景に何度か遭遇したことがあります。

私は、「江戸一」では、静かに独酌することにしていましたが、一度だけ、隣の客と話が合い、ついつい徳利の本数が過ぎ、声が大きくなってしまったことがありました。勘定をしてもらい、引き上げるとき、女将は何も言わなかったのですが、一月後くらいにお邪魔したとき、カウンターにお盆を置きながら、ピシャリと言われました。
「この前は、だいぶお召し上がりでしたね」と。