今となっては、ずいぶん以前のことのように思えるのですが、選挙の時、新聞社から候補予定者にアンケートがよく来ました。その中に、愛読書について記す欄があり、迷わず、永井荷風の『断腸亭日乗』と記したのを覚えています。
愛読書としては、松本英昭『逐条 地方自治法』(学陽書房)など、折に触れて紐解く地方自治の著作はあるのですが、何ヶ月か一度、戦前の時代背景とか、支配的な思潮や異端の論調とか、グルメや風俗とか、東京の街並みとか、人々の行動様式とかを知りたくなったり、何か考えごとをしていて、ふと、素朴な疑問が出てきたときに、『断腸亭日常』には、何と記してあったのだろう、となることがときどきあるのです。
『断腸亭日常』には、ついつい、どこでもいいから、頁を開いてみたくなるようなところがあります。
永井荷風といえば、政治や社会に背を向け、極私的世界に耽溺した、孤高の傍観者というイメージが強いのですが、『断腸亭日乗』を読むと、永井荷風が、政治や社会に対して常に強い関心を持ち、強烈な批判精神を持っていたことがよくわかります。
官吏もしばしば登場し、容赦なく槍玉に上がっています。
荷風が描いた街の佇まいは、ほとんどが東京でしたが、昭和20年6月、東京が焼け野原になり、荷風は、汽車で西に向かいます。
「六月初三。列車中の乗客われ人ともに列車進行中空襲の難に遭はむことを恐れしが、幸いにもその厄なく午前六時過京都駅七条の停車場に安着す。夜来の雨もまた晴れ涼風習々たり、直に明石行電車に乗り換へ大坂神戸の諸市を過ぎ明石に下車す」
明石で逗留したのは、西林寺でした。
「西林寺は海岸に櫛比する漁家の間にあり、書院の縁先より淡路を望む。海波洋々マラルメが『牧神の午後』の一詩を想起せしむ。江湾一帯の風景古来人の絶賞する処に背かず」
と、その風景を褒め称えています。