今年は、明治維新、そして兵庫県制150年の年です。
昨年は、神戸開港150年記念事業が一年を通して開催されました。
1868年は、我が国にとり、そして神戸にとっても、近代の幕開けを告げる重要な年でした。
激動の時代にあって、予期せぬ事件も発生しました。
いわゆる神戸事件です。
1868年2月4日(旧暦1月11日)、三宮神社前を進んでいた備前藩の隊列の前を外国人が横切り、この外国人を備前藩砲兵隊第三隊長、瀧善三郎の手槍が直撃、さらに発砲を加えたという事件です。
間もなく海岸に外国兵が散開して備前藩の隊列に射撃を開始し、数時間の銃撃戦となりました。
「神戸史談」1月号は、「神戸開港と神戸事件=近代日本外交史の第一頁=」と題された島田清氏の論文を掲載しています。
この論文は、神戸開港120年の年、1987年(昭和62年)に掲載されたものの復刻です。
当時の政治情勢、世情、事件勃発までの経過とその後の対応がドキュメンタリー風に記され、興味深く読ませていただきました。
事態収拾のための交渉は、2月8日(旧暦1月15日)、運上所、今の税関で行われました。
フランス、英国など各国の公使と東久世通禧を代表とする新政府の幹部が向かい合いました。
外国側の要求は発砲を命じた士官の極刑、関係諸国への陳謝で、明治政府は備前藩を説得してこれを受け入れ、瀧善三郎の切腹は、3月2日(旧暦2月9日)、神戸の永福寺において各国公使検証のもとに行われました。
島田論文のサブタイトルが示すとおり、この交渉は「近代外交の第一ページ」であり、発足間もない明治政府の事態収拾能力を内外に示す結果となりました。