久元 喜造ブログ

尾崎翠の東京往還

先週の日曜日、 9月28日のブログ で、久坂葉子(1931 – 52)のことを取り上げました。そのとき、神戸文学館 で連想したのは、尾崎翠 のことでした。半年前くらいにも、新聞の書評に取り上げられていました。

尾崎翠(1896-1971)は、鳥取市出身の女流作家です。教科書に出てくるような有名作家ではありませんが、隠れた、熱烈なファンは多いことでしょう。
池内紀氏は、『出ふるさと記』の中で「彷徨」と題する章を設け、尾崎翠を取り上げています。
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尾崎翠の小説は、大正デモクラシーの頃の東京を舞台にしていますが、今読んでも驚くほど新鮮です。とてもいきいきとしていて、同時に切なく、科学的実証、あるいは非科学的な想像にあふれています。
個人的には、ねじれたファンタジーが感じられる『こおろぎ嬢』『地下室アントンの夜』が好きです。

早くから文学の道を志していた尾崎翠がはじめて上京したのは、1919年のことでした。
尾崎は、鳥取と東京との往復を繰り返します。代表作『第七官界彷徨』を発表したのは、1927年、7度目の上京を果たした後でした。尾崎の作家活動は、この後の5年間に集中します。

予想されたこととはいえ、文学への道は平坦ではありませんでした。
苦しかった生活の一端は、小説『木犀』の次の一節からも窺えます。

「お母さん、私のような娘をお持ちになったことはあなたの生涯中の駄作です。チャップリンに恋をして二杯の珈琲で耳鳴りを呼び、そしてまた金の無心です。しかし明日電報が舞い込んでも病気だと思わないで下さい。いつもの貧乏です、私が毎夜作る紙反古はお金にはなりません。私は枯れかかった貧乏な苔です」

「久坂葉子の誕生は悲劇名詞です」という一節に通じるものがあります。

1932年、鳥取に戻った後は、姪の世話をしたり、手製の雑巾を売り歩いたりしながら暮らしました。
長い忘却の後、尾崎の作品が見直され、東京の出版社が作品集の話を持って行ったとき、彼女は全身不随で、病院にいました。
翌年、ひっそりとこの世を去りました。