久元 喜造ブログ

川本三郎『荷風の昭和』


だいぶ前に知り合いからもらった雑誌のコピー『荷風の昭和』を、夜遅くときどき読んでいます。
今回のテーマは「市川左團次との親交」。
親しい友人をつくろうとしなかった永井荷風にとり、数少ない友人が歌舞伎俳優の二世市川左團次でした。
荷風の日記『断腸亭日乗』(2013年12月9日のブログ)には、大正の中頃から左團次の俳号「松莚」の名が頻繁に登場します。
市川左團次は、演劇の改革を志向し、盟友の小山内薫らとともに、自由劇場の立ち上げに奔走しました。
演劇好きの荷風は、帝国劇場での自由劇場の公演に感激し、「われは愛す自由劇場」で始まる詩を創っています。

市川左團次の行動力は、群を抜いていたようです。
1928年(昭和3年)12月、ソ連を訪れて歌舞伎の興行を打ち、大成功させたのです。
訪問団は、松竹の副社長を団長に、左團次などの歌舞伎役者、義太夫、囃子連中、衣裳など総勢約50名。
一行は当初、下関から釜山に渡り、ハルピン経由の予定でしたが、6月に関東軍による張作霖爆殺事件が起き、敦賀からウラジオストクに渡る行程に変更しています。
この難しい時代に、日本とソ連の芸術文化交流に尽力したのが、後藤新平でした。
本号では後藤が、後に宮本顕治の妻となる中條百合子のソ連遊学を助けたことが紹介されています。
後藤はソ連との国交樹立に尽力し、左團次らが訪ソした同じ年の1月、モスクワでスターリンと会談しています。
後藤新平は、翌1929年4月、旅先の京都で死去。
一方、ソ連ではスターリンが独裁体制を確立し、演劇の世界も統制が強められていきます。
左團次らが交友した劇作家のメイエルホリドなど芸術家たちの多くも粛清されていったのでした。