久元 喜造ブログ

中島らも『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』


先週の夜、JR元町駅のホームで、灘高の1年上の先輩に会い、中島らも さんの話になりました。
帰宅し、さっそく本棚の奥から引っ張り出しました。
ろくに受験勉強もせず、めちゃくちゃな青春の日々が赤裸々に語られます。
1970年前後の神戸がひんぱんに登場し、なつかしい風景を思い出しながら、いくつかの部分を再読しました。

大阪の中華料理はまずい。というよりは神戸のそれがうますぎるのだ
と叫ぶ、らもさんが挙げるのは、三宮の「振華軒」、元町の「丸萬飯店」、鯉川筋の「東亜食堂」、そして、モツ料理の「丸玉食堂」でした。
丸玉食堂」には、今もときどきお世話になっています。

抱腹絶倒の話が多いのですが、友人の自殺についても語られます。
らもさんの友人は、「田舎の一軒家に一人で住んで、受験勉強をしていた」のだそうです。
タヌキが出た話をして周りを笑わせていた彼は、高校を出て日がたつにつれ、だんだん物静かになり、「水子」の話をするようになったのだそうです。
そして、その田舎の家で、自ら命を絶ったのでした。
そのときから18年経って、らもさんは、こう記します。
「こうして生きてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいかもしれないが、「 生きていてよかった」と思う夜がある」。

あとがきには、こう記されています。
「通読していただくとわかるが、十代前半の明るさに比べると、後半はひたすらに暗い。ほんとうのところはこの後に「超絶的に明るい、おじさん時代」というものが横たわっているのだ」

あとがきの日付が、1989年5月。
2004年に亡くなるまで、中島らもさんは「超絶的に明るい、おじさん時代」を生き抜かれたのでしょう。