久元 喜造ブログ

越澤明『後藤新平ー大震災と帝都復興』


後藤新平(1857 – 1929)は、関東大震災後の帝都復興を指揮した人物として、「大風呂敷」との不当な評価とともに後世に名を残しています。
スケールの大きな構想を持ち、近代国家の建設に邁進した政治家という印象を持っていましたが、本書を通読し、改めてその偉業と人物像に触れることができました。

まず印象深かったのは、水沢の下級武士の家に生まれた後藤が、その才能を認められ、頭角を顕していった過程でした。
当時の胆沢県大参事、安場保和は、優秀な少年を給仕(連絡役・雑用係)として採用します。
その中に、水沢三秀才として知られた後藤、斎藤実(後の総理大臣)がいました。
そして安場の勧めで須賀川医学校に進学、愛知県令に転じた安場は、設立間もない公立医学校に後藤を医師として採用します。
1882年、板垣退助が岐阜で襲撃されたとき、後藤は名古屋から岐阜に出向いて、板垣の治療に当たりました。
この直後、後藤は内務省衛生局勤務を命じられ、35歳の若さで内務省衛生局長に就任しました。

後藤衛生局長の存在は、伊藤博文、山形有朋、桂太郎などの要人に注目されるようになり、後藤は、医療政策のみならず、社会政策、労働者保護、統計制度などさまざまな分野で建議書・建白書を提出していったのでした。
後藤はこの後、台湾総督府民政長官、南満州鉄道初代総裁、鉄道院初代総裁などを経て、1916年、寺内正毅内閣の内務大臣に就任。
東京市長を経て、関東大震災直後に山本権兵衛内閣の内務大臣に任じられ、帝都復興の陣頭指揮に立ったのでした。
後藤の生涯を通じ、明治後期から大正期における帝国政府のダイナミックな人材登用、政策展開の一端に触れることができ、いろいろ考えさせられました。