久元 喜造ブログ

六甲山を再生に導いた坪野市長と本多博士

広報紙KOBEの6月号で、
「江戸時代、はげ山だった六甲山を緑豊かな姿に再生させたのは、明治期の先人による努力の賜物です」
と記したところ、読まれた方が、「本多静六通信」のことを教えてくださいました。
この冊子は、久喜市役所に事務局がある「本多静六博士を顕彰する会」が発行しており、お茶の水大学名誉教授の遠山益先生の論文が掲載されていました。
遠山先生の論文によると、六甲山の荒廃の歴史は古く、源平の合戦の頃から進んでいったようです。とりわけ豊臣秀吉による大阪城築城に際しては、「六甲山の樹木伐採勝手たるべし」との布令が出され、江戸時代になると、伐採による荒廃はさらに加速していきました。

明治に入り、荒れ果てた六甲山を再生させ、植林事業に取り組むため、初代神戸市長、鳴瀧幸恭(在任:1889-1901年)は、1901年、植林調査と計画をつくる予算を計上しました。これを受け継ぎ、本格的に植林事業に取り組んだのが、第2代神戸市長、坪野平太郎(在任:1901-05年)です。
坪野が頼ったのは、林業の専門家で、日比谷公園、明治神宮などの造営にかかわり、日本の公園の父とも呼ばれる本多静六博士でした。遠山先生の論文によれば、坪野と本多は、1890年、欧州に向かうフランス船の中で知り合ったようです。

1902年、坪野市長は、六甲山系の治水の調査、砂防造林の設計を本多博士に委嘱します。
本多の指導による植林の特徴は、常緑樹と落葉樹、針葉樹と広葉樹の配合でした。また、四季折々の色彩などにも考慮が払われました。
本多による造林計画に基づき、1915年までに約600ヘクタール、合計334万本もの造林が行われました。
その後も、坪野と本多の意志を受け継いだだ先人たちは、植林事業を続け、六甲山は、緑あふれる姿に生まれ変わっていったのでした。(文中敬称略)