将来を構想するアプローチを、ごくおおざっぱに分類すれば、次の3種類になるのかも知れません。
1)現状をどのように改革していくかを、現状の延長線上に考える「シナリオ的発想」
2)現状とはまったく無関係に、あるべき理想の姿を構想する「ユートピア的発想」
3)逆に、絶対にこうあってほしくない姿から将来構想を照射してみる「逆ユートピア的発想」-オーウェルの『1984年』が代表的。
ふつう、私たちは、「シナリオ的発想」に基づいて将来の姿をイメージし、そのための方策を考えます。私のように、長く実務の世界に身を置いてきた人間は、ほとんどがこのアプローチをとります。
「ユートピア」という言葉には、空想的、非現実的、幼稚といった軽侮のニュアンスがあり、とりわけ役所の世界では、「ユートピア」が語られることはまずありません。
しかし、覆いがたい閉塞感がこの世を覆っているように感じられるとき、あるいは、まったく次元が違うのですが、「シナリオ的発想」に依拠して将来構想をいくら議論しても堂々巡りになり、疲労感を感じてしまうようなときは、思い切って現実を忘れ去り、「ユートピア的発想」に頼ることがあってもよいのではないかと思えるときがあります。
最近、中沢新一『チベットのモーツァルト』所収の「極楽論」を久しぶりに読み返したのですが、難解な内容をなかなか理解できないまでも、「ユートピアのビジョン」を語ることが、いかに透徹した知性と知的鍛錬、そしてときには、想像を絶する肉体的限界への挑戦を必要とするかについて考えさせられました。
「極楽」の多様な姿が次々に繰り出され、「現実の世界以上に現実的な世界」の存在に目が眩む思いがしました。