灘中学校・灘高等学校の前校長、和田孫博先生のご著書を読みました。
胸に突き刺さるのは、あの震災のときの記録です。
1995年1月17日に朝、大阪市福島区のご自宅は、激しく揺れ、和田先生はすぐにお父上とともにタクシーで灘校に向かいます。
移動は困難を極め、辿り着いたのは、午後2時半でした。
そこから、壮絶な日々が始まりました。
地震発生の夜、灘校の避難者は最大300人余り、体育館の遺体は200体を越えました。
混乱の中で迎えた翌日、警官が来校し、御影のガスタンクからガスが漏れていて、大爆発の危険があるので避難せよと告げます。
「ガスタンクが爆発するかもしれないという騒ぎの際、川辺の途を南の方からリュックを背負い、子供の手を引いて避難する人の列を見て、戦争映画の空襲から逃げ惑うシーンのように思われました」。
震災の混乱の中、大学受験が目前に迫っていました。
灘高の先生方は、余震が続く中、資料を掘り出し、2次試験の調査書の作成に当たったと記されています。
灘校は、被災者への支援拠点にもなり、5日目には、自衛隊の給食が始まりました。
2月に入ると、自衛隊の「お風呂部隊」がやってきました。
北海道の部隊は「ちとせ温泉」、石川の部隊は「かが温泉」の看板をかけて被災者を温めてくれたそうです。
地震後の初めての授業は、2月13日に行われました。
GWは文化祭も開かれ、避難者も参加されて、ともに楽しむ会となりました。
最後の避難者が灘校を退去されたのは、7月19日でした。
当時の灘校の経験が、後輩のみなさんに受け継がれていることは、私も承知しています。
ご著書を拝読し、和田先生や当時の先生方の想いを、改めて深く胸に刻みます。