久元 喜造ブログ

牧原出『田中耕太郎』


10年を超えて最高裁判所長官を務めた田中耕太郎の経歴は、実に多彩です。
東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省しますが、すぐに大学に戻り、助教授・教授として学部、大学全体の運営にも関わりました。
1930年代になると、大学は嵐の時代を迎えます。
京大で起きた滝川事件の後、東大にも軍部、文部省などからの圧力が強まり、天皇機関説事件が起きます。
美濃部達吉はすでに退官していましたが、後継の憲法学者・宮沢俊義にも糾弾の声が上がります。
長与又郎総長など東大の当局は、粘り強く政府と交渉し、内閣も「学府の自治」を尊重しつつ、事態の鎮静化を図りました。
法学部長となった田中は、荒木貞夫文相との対峙、平賀粛学問題の収拾などに当たりました。
当時の法学部・経済学部の教授間の対立、人間関係も描かれます。
戦争末期、法学部と徐々に距離を取るようになる田中は、学外で異分野の知識人と戦後を見据えた会合を重ねるようになっていきます。

終戦後、田中は活動の場を学外に移します。
1945年9月、田中は文部省学校教育局長に就任、翌年の第1次吉田茂内閣で文相に就き、教育基本法の制定、6・3制の導入の陣頭指揮を執りました。
貴族院議員から議院議員全国区に立候補して当選、既成政党とは一線を画し緑風会に属して活動しました。
1950年3月、田中は第2代最高裁判所長官に就任、裁判制度の確立と司法権の独立に尽力しました。
田中の思想についても、多角的に触れられていきます。
大学、政治・行政、裁判所、国際司法という幅広い分野で活躍した田中の足跡から、戦争の時代と戦後混乱期を生きた巨人の苦悩と矜持が伝わってきて、言い知れぬ感動を覚えました。