本書について、著者自身はこう記しています。
「本作は、アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』の形式を、明治期に実在した会に当てはめた」
「したがってアシモフにならい、覚え書きを附すことにした」
こうして、明治時代の終わり頃に実在した芸術家サロン〈牧神(パン)の会〉が、想像豊かに再現され、各章に覚え書きが記されます。
木下杢太郎、北原白秋、石井柏亭、吉井勇など若き芸術家たちが集いました。
彼らは隅田川沿いの料理店「第一やまと」で、自らの体験や側聞した事件を語り、その語り自身がミステリーとして展開されます。
不思議な読書体験でした。
当時の東京の雰囲気が、香りや光景、音たちとともに蘇って来るように感じられたのです。
勧業博覧会が開催された上野公園、事件の舞台となる、お茶の水のニコライ堂の風景、会に運ばれてくる料理の香しい香り、当時の音風景などが巧みに描かれ、まるでタイムスリップしたかのように物語の世界に引き込まれました。
常連のほかに、石川啄木、森鷗外、長田幹彦、栗山茂などが登場します。
詩人の栗山茂は、第3回の事件が解決した後、こう語ります。
「ぼくは外交官になろうと思ってる」
「なんといっても、この国はまだ危うい。それを、ぼくは陰から支えるつもりだ」
栗山は、後に外交官、最高裁判事として困難な時代を生き抜いていきます。
本書では記されていませんが、栗山茂のご子息は、外務事務次官、駐米大使を務めた栗山尚一です。
事件の解決に常に的確な指摘をする女中、あやのが、女性運動家、平塚らいていであることが、最後に明かされます。
実在の人物たちの架空の姿が、逞しい想像力で生き生きと描かれていました。(文中敬称略)