久元 喜造ブログ

島田叡氏「合掌の碑」

「武陽会」と島田叡・沖縄県知事

6月11日の神戸新聞に、県立兵庫高校同窓会「武陽会」と戦前最後の沖縄県知事・島田叡(しまだあきら)氏の記事が出ていました。

「武陽会」は、6月15日、今年3月に、100回目の卒業生を送り出したことを記念した「武陽人100年の集い」を開催されるのだそうですが、このとき、兵庫高校の前身、旧制神戸二中の卒業生で、第2次大戦中に沖縄県知事を務め、戦禍で消息を絶った島田叡氏に関する講演会を開催すると記されてありました。

島田叡氏は、戦前の制度の中で最後の官選知事を務めた人です。

旧制神戸二中の卒業生で、内務省に入省、昭和20年1月、大阪府内政部長に在任しているとき、大阪府知事から沖縄県知事への就任を打診されました。当時、米軍の沖縄進攻が確実視され、沖縄への赴任は、生きて本土に戻れないことを意味していました。前任の沖縄県知事は、口実を設けて東京に出張し、そのまま別の県知事に転任していたのです。

島田叡氏は、その場でこの打診を受諾し、沖縄に赴きました。そして困難を極めた状況の中で、軍との調整を図り、県民の保護に努めました。まもなく米軍が沖縄に上陸し、壮絶な沖縄戦が始まります。島田叡知事は、摩文仁付近で行方不明になったと伝えられます。

島田叡氏は、戦後、本土への複雑な感情が存在してきた沖縄で、もっとも敬愛されてきた人物です。島田叡氏の生涯は、田村洋三『最後の島守 ― 内務官僚かく戦えり』(中公文庫)に詳しく描かれています。

私は、島田叡氏のことを、総務省に入省してきた職員への研修の中でも取り上げたことがあります。われわれは、島田叡氏の時代とは異なる時代に生きているが、島田叡氏の思いや覚悟は受け継いでいこう、と呼びかけました。

昨年の11月に神戸に戻ってきて間もない頃、兵庫高校を訪れ、校内の「合掌の碑」に手を合わせました。島田叡氏の業績を顕彰して設立された碑です。

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きょうは、兵庫高校同窓会会長をされている和田憲昌・和田興産会長をお訪ねし、島田叡氏について、いろいろとお話を聞かせていただきました。和田会長は、島田叡氏が消息を絶ったと伝えられる密林の中も歩いてこられたのだそうです。

島田叡氏は、神戸が誇る偉人です。その功績を永遠に後世に伝えていきたいという気持ちを、共有させていただきました。