久元 喜造ブログ

伊藤博文公台座の周辺整備


大倉山公園に伊藤博文公の台座が残っています。
今年が明治維新・兵庫県政150周年に当たることから、台座周辺を整備することにしました。

現在の大倉山一帯は、もともと大倉財閥の創始者、大倉喜八郎が所有し、別荘としていました。
しかし、大倉喜八郎自身はあまり滞在せず、彼と懇意で、初代兵庫県知事を務めた伊藤博文公が気に入り、よく利用していました。
1909年(明治42年)、伊藤博文公がハルピンで暗殺されます。
この直後、大倉家から、この場所に伊藤博文公の銅像を建てて公園とし、市民に開放してほしいとの申し出があり、神戸市に寄付されました。

2年後の1911年(明治44年)10月、銅像が完成し、大倉山公園が開園しました。
銅像の伊藤博文公はフロックコートを着用し、高さは十尺(3.03m)ありました。
台座は、京都大学初代建築学科教授の武田五一の設計によるもので、デザインは、国会議事堂中央部分と類似しています。
武田五一の愛弟子である吉武東里らが、師匠のデザインを取り入れて国会議事堂を設計したともいわれています。

伊藤博文公の銅像本体は、第2次世界大戦中に金属供出され、台座だけが残りました。
以前は、下の写真にあるように、高さ2m程のネットフェンスで囲まれ、フェンスの上部には有刺鉄線が張り巡らされていて、全体として近づきにくい雰囲気でした。

今回の整備では、フェンスの高さを低めに抑え、樹木を間引きし、エントランス広場、スロープ型園路を整備しました。

また、銅像の写真を掲載した説明板も設置しました。

大倉山にお出かけの際には、ご覧いただければ幸いです。