東京の練馬区で、また通り魔事件が起きました。
下校中の 小学1年生3人の男子児童が、刃物を持った男に切りつけられたのです。
このような通り魔事件の報道で歯がゆいのは、被害者のことは詳しく報道されるのに、犯人の人物像があまり紹介されないことです。
事件が起きたばかりのときは、あまり情報がないのかもしれませんが、日が経つと、次々に起きる出来事の陰に隠れて、事件は次第に報道されなくなり、結局、どんな人物が事件が起こしたのかは、うやむやになりがちです。
こどもを狙った通り魔事件が相次ぐと、登下校時のパトロールや学校の警備の強化が叫ばれます。
もちろん、このような対応も必要ですが、やはり、通り魔事件を引き起こす犯人像について明らかにしていくことは不可欠だろうと思います。
そして、もし、通り魔事件を引き起こす犯人像に共通点を見いだすことができるのであれば、私たちの社会に何らかの原因が潜んでいるのかどうかについて、思索を巡らしていくことが必要ではないかと思います。
軽々な断定は避けなればなりませんが、秋葉原での通り魔事件などいくつかの事件の犯人像に見え隠れしているのは、犯人の自暴自棄、そして、孤独と社会からの疎外であるような気がします。
孤独と疎外が自暴自棄の背後に潜んでいるような気がしてなりません。
見も知らぬ多数の人々を殺傷しようとする通り魔事件は、銃社会のアメリカでは、さらに悲惨な結果を招きます。
爆弾による無差別大量殺人も起きていますが、通り魔事件の延長線上にあると言えましょう。
今年の4月15日、ボストンマラソンのゴールで爆弾事件を起こした容疑者のひとりは、
「私はアメリカの友人が一人もいない。彼らが理解できない」
と語っていたと伝えられます。
社会における孤独と疎外の広がりは、社会の荒廃と治安の悪化を招きます。
私たちは、地域社会における孤独と疎外から目を背けてはならないような気がします。