今年、新しいローマ教皇にに選ばれたホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は、「フランシスコ(1世)」を名乗りました。
この名前は、13世紀にイタリアで活躍したアッシジの聖フランチェスコにあやかったものとされています。
なぜこれほど高名な聖人の名が、これまでローマ教皇の名前に使われなかったのか。
私の勝手な想像ですが、それは、もしかしたら、アッシジの聖フランチェスコが持っていた、急進的な社会運動的性格、あるいは、正統的な権威に対する反体制的な性格にあったのかもしれません。
聖フランチェスコは、1182年、アッシジの富裕な商人の家に生まれました。恵まれた青春を送ったようですが、二十代半ばにして、持てるものすべてを投げ捨て、信仰の道に入ります。
ボロをまとい、町から村へと托鉢に歩き、病に苦しむ者を癒し、十字架にかけられたキリストと同じ聖痕を身に受けたりしたとも伝えられます。この時代、教会の腐敗が目に余るものとなり、さまざまな異端の集団が都市や教会を襲うなど教会を取り巻く混乱状態が高まっていました。
ローマ教皇側も、改革の必要を認めざるを得なかったのでしょう。彼の革新的な行いは、やがてローマ教皇から修道会として認められるところとなりました。
聖フランチェスコの革新運動はまたたく間にイタリア中に広がり、彼がその波乱に満ちた生涯を終える頃には、聖フランチェスコの運動は、一大勢力に成長していました。
アッシジの聖フランシスのこのような事績を思い起こしますと、母国アルゼンチンでスラムでの活動に力を注いだ、新ローマ教皇との共通点があるように感じられます。
この二人の聖職者は、900年の時空を超えて、ともに宗教者の立場から、 社会統合のありようを考え、実践したと言えるのかもしれません。