赤と黒のコントラストが目を惹く、妖しげな雰囲気を漂わせる装丁です。
著者は、蓮實重彥。
フランス文学者で、東大総長も務められました。
小説の焦点は、ひたすら下半身。
局部的な描写が次々に現れます。
それでいて、文章は流れるように心地よいのです。
まるで美しい音楽を聴いているかのようです。
官能的だけれど、けっして聴く者を自己撞着的満足に耽溺させない音楽です。
あくことのない感覚的描写で思い起こされるのが、宇能鴻一郎の個性的な発声法とリズムですが、『伯爵夫人』には、高踏的でアイロニカルな佇まいが感じられます。
謎の女性、伯爵夫人が、帝大受験を控えた高校生の二朗を挑発し続ける物語ですが、ふたりの周囲には、かなりの人物が登場して局部に絡んだ人間模様を現出させ、名状しがたい混沌は、ある種のラビリンスに読む者をいざないます。
記憶がひんぱんに挿入されることもあり、現実と夢想が交錯します。
ある種の白昼夢かもしれません。
自然はまったくと言ってよいほど登場せず、繰り広げられるのは、人工的で微細な秘められた世界です。
永井荷風の『断腸亭日常』には、いわゆる裏風俗が登場し、戦時下においても健在であった欲望の存在をちらりと見せてくれます。
類似の描写は『伯爵夫人』にも登場しますが、観察者に徹した永井荷風と異なり、蓮實重彥は、破滅に向かう人物たちをからかい、あざ笑い、いたぶる謎の女性を通じて、日本が崩壊に至る過程を鮮やかに描きます。
そして物語は、米国に宣戦布告したニュースで閉じられるのです。(文中敬称略)