神戸市長選挙への出馬と当選
2012年(平成24年)
2012年(平成24年)の8月、総務省自治行政局長として5年目に入っていた私は、上司に呼ばれ、生まれ故郷の神戸市で仕事をする気はないか、との打診を受けました。家内とも相談し、矢田立郎市長にお会いしてお話をお聞きしました。9月に総務省を辞職した後は、独りでネットなどを使い、神戸市政の現状を勉強しました。
10月下旬、私を副市長に選任する同意議案が、矢田立郎市長から神戸市会に提出されました。自宅のインターネット中継で、議案審議などの状況を見ることができました。
市会での同意議案は賛成多数で可決され、11月1日、私は、矢田立郎市長から副市長に任命されました。市民参画推進局、産業振興局、消防局などが所管となりました。
神戸に戻るのは40年ぶりで、神戸の街は、震災などにより大きく変わりました。また、神戸市役所で仕事をするのは初めてでしたから、しっかりと勉強しようと決意しました。所管以外の局、部を含め、職員のみなさんは丁寧に現状や課題などについて説明をしてくださいました。
さまざまな団体、会社のみなさんとも、いろいろな会合でお会いしたり、来訪していただいたり、それぞれお話をお伺いすることができました。 本当に仕上げることができるのだろうという迷いもありましたが、これまでの地方自治に関する経験を踏まえ、『ネット時代の地方自治』を執筆することにしました。夜、帰宅してから、あるいは、早朝4時半に起床し、書き始めました。
2013年(平成25年)
神戸市役所の新年はかなり慌ただしいものでした。ホテルなどでの新春互礼会、新年会、さまざまな団体の来訪などの行事があり、一方で、2013年度(平成25年度)当初予算の編成作業が行われました。予算編成作業はそれぞれの自治体によって独自の流儀があるもので、神戸市の予算編成も、財政局長として関わった札幌市の予算編成などとはかなり趣を異にしていました。
市会の最終日の3月28日、本会議で、矢田立郎市長は、「神戸は新しいステージに向かう」と発言され、10月に予定される市長選挙に4選出馬しない方針を明らかにされました。
新年度に入ると、さまざまな団体などから講演を依頼される機会が増えました。公務の合間を縫ってこれまで知らなかったさまざまな分野のみなさんと神戸の現状と将来について意見交換を行いました。
黄金週間を過ぎると、私に対して市長選挙に出馬を促す動きが少しずつ出てきて、さまざまな団体から推薦状をいただくようになりました。
神戸市会各会派の動きも活発化してきました。
6月6日、私は、矢田立郎市長に副市長の辞表を提出して受理され、大勢の職員のみなさんの見送りを受け、7か月余り過ごした市役所を後にしました。
翌6月7日午後3時から、ポートピアホテルで出馬表明を行い、10月の市長選挙に向けた政策を説明しました。記者のみなさんからの質問が途切れることなく、記者会見は約2時間に及びました。
7月24日、兵庫駅で初めて駅頭に立ち、以後、さまざまな駅の駅前などでマイクを握りました。
9月15日、松方ホールで、立候補予定者4人による公開討論会が開かれました。ある立候補予定者が発言するたびにものすごい拍手の嵐が巻き起こり、驚きましたが、私は挑戦者のつもりで積極的に議論を提起する一方、質問には冷静に対応しました。
告示の前日の10月12日には、大学生の団体 Re-Kobe による公開討論会が開かれました。できる限り具体的にお話しするよう努めました。
10月13日、選挙が告示になり、14日間の選挙戦がスタートしました。初めての経験で戸惑いましたが、必死でマイクを握り、車の中から、駅前で、あるいは街中、田んぼのあぜ道から支持を呼びかけました。
手を振って応えてくれる方も多く、ありがたかったですが、全体として自分を取り巻く情勢はたいへん厳しいと感じていました。
10月27日の夜、三宮の選挙事務所近くで開票状況を見守りましたが、私はリードされることが多く、頭の中では、敗戦の弁を考えていました。自分なりに満足できる敗戦の弁がまとまった午後11時過ぎ、私に当確が出たという連絡が入り、頭が真っ白になって事務所に駆けつけました。 しどろもどろになりながら、遅くまで待っていてくださっていたみなさまにお礼の挨拶をしました。
確定投票結果は、次のとおりでした。
久元きぞう | 16万1,889.094票 |
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かしのたかひと | 15万6,214票 |
森下やす子 | 5万3,393票 |
ぬきなゆうな | 4万6,692票 |
久本信也 | 2万6,548.897票 |