平成の自治体・霞が関勤務

1989年(昭和64年)

1月7日、天皇陛下が崩御され、改元となりました。

昭和から平成に円滑に移行するための行政事務の処理に追われました。財政課長に異動となり、京都府の財政運営を担当しました。

日本中がバブルに沸き、1989年12月、株価は3万8915年の高値をつけました。当時の自治省は、地方自治体が貯金をすると地方財政余裕論につながり、地方財政対策上不利になるので、「貯金はするな、どんどん使え」という方針でした。

しかし、私はこんな世の中がいつまでも続くはずはなく、自治省の方針には反するが、一定の蓄えをしておくことが必要だと考えていました。そこで、将来の京都の自然と文化遺産の保全のために、100億円の「緑と文化の基金」をつくるよう、当時の荒巻禎一知事に献言し、認めていただきました。

1990年(平成2年)

9月、自治省に復帰し、大臣官房企画室に異動しました。

昭和から平成に円滑に移行するための行政事務の処理に追われました。財政課長に異動となり、京都府の財政運営を担当しました。

竹下内閣で始められた「ふるさと創生」、とくにハード事業への財政支援を担当しました。

当時は、日米構造協議に基づき「公共投資基本計画」がつくられ、地方自治体の単独事業に大きな期待が寄せられていました。自治体はここぞとばかりハコモノの建設に走り、自治体の事業計画を見ていると、3ヶ月前に100億だった事業が翌月には200億になり、すぐに300億に増えるというありさまでした。

「少し、きちんとした計画をつくってくれませんか」と会議で話したことが、地方財政を担当している先輩の耳に入り、呼びつけられて、「公共投資の拡大に水を差すのか!」と怒られました。自治省までもがバブルに踊っていていいのだろうか、と悲しい気分になりました。

1992年(平成4年)

4月、札幌市財政局長を拝命しました。

札幌は美しい街で、伸びやかな雰囲気にあふれていました。桂信雄市長は、堂々たる体軀の立派な市長でした。頭の切れ味は抜群でしたが、それを表面には出されませんでした。

どこの自治体もそうですが、札幌市でも予算編成のときに要求に上限をはめる「シーリング」というやり方をしていました。国の予算編成で採られている方法ですが、内閣の下に各省庁が分担管理している国と、ひとりの首長に責任が集約される自治体ではやり方が違ってもよいのではないか、局ごとにシーリングをはめると新しい発想が生まれにくくなり、弊害の方が大きいのではないかと考えていました。また、予算規則では、要求部局の予算要求権も明記してありましたので、初めから要求に制限を設けるのは、予算規則で認められた各局の予算要求権を侵害するのではないかと考えました。

そこで、いっそのことシーリングを撤廃し、必要な要求はしてもらい、財政局がそれを査定すればよいのではないかと提案したところ、財政部のみなさんは、たいへん困った顔をしました。確かに、いきなりシーリングを撤廃するのにも無理がありましたので、政策経費の要求枠を拡大することで折り合いました。

札幌市では、国民健康保険と地下鉄がとりわけたいへんでした。このほか、高齢者福祉(ゴールドプラン)、ごみ処分、市営住宅、下水道投資の水準などについて、庁内で侃々諤々の議論を交わし、たいへん勉強になりました。

桂市政の下で、地下鉄東西線の延伸、コンサートホール(後の「キタラ」)、札幌ドーム構想の具体化などの仕事に一緒に加わらせていただいたことは、ありがたい経験でした。

1995年(平成7年)

1月17日、阪神・淡路大震災

1月17日朝、ラジオのニュースで、「関西地方で強い地震がありました。各地の震度は、震度6、神戸……」と放送されるのを聞き、飛び起きてNHKニュースをつけました。惨憺たる神戸の姿がそこにありました。

出勤して、テレビをつけっぱなしにして仕事を続けました。川池小学校の校区の上沢、松本通が火に包まれるのを見て、涙が止まりませんでした。こんなときに神戸のために何の役にも立たない自分がみじめでした。

私が神戸の出身だと知っていた札幌市の職員のみなさんは、たくさんの義援金を寄せてくださり、ありがたかったです。義援金は、神戸市の杉田文夫理財局長(当時)にお送りしました。

7月、東京に戻ることになり、内閣官房内政審議室内閣審議官になりました。

各省庁間を調整する組織で、各省庁からの出向者で構成されていました。

もちろん、阪神・淡路大震災への対応も、当時、政府一体となって対応しなければならない重要な課題でした。私はこの仕事を是非やりたいと思いましたが、残念ながら、すでに建設省出身の辻原俊博内閣審議官(前クウェート大使)の担当となっていました。辻原さんは、震災復興の委員会への対応や各省庁との調整に、全力で、また真摯に対応されていました。たいへん、ありがたく、感銘を受けました。

私は、地方分権の推進などを担当していましたが、沖縄の普天間基地が返還されることになり、沖縄県との調整ルートの構築なども担当することになりました。沖縄にもしばしば出張し、大田昌秀沖縄県知事との会談などにも同席しました。

ひんぱんに行われた官邸内の協議にも加わりましたが、こんなことでいいのか、と、いろいろ疑問に感じることが多い日々でした。

2000年(平成12年)

4月、国土庁地方振興局総務課長に出向しました。

翌年の1月に省庁再編が行われることが決まっていて、国土庁は廃止されることになっていました。国土庁のいわば店じまいと、地方振興の仕事を別の府省に円滑に引き継ぐのが仕事でした。

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