神戸での少年時代
1954年(昭和29年)
2月1日、神戸市兵庫区新開地界隈で生まれました。
1960年(昭和35年)
4月、神戸市立川池小学校に入学しました。
1964年(昭和39年)
鈴蘭台に転居し、神戸市立小部小学校に転校しました。
田んぼを走り回ったり、友だちと山の中に基地をつくって遊んだり、あてどなく野山をさまよい歩いたり、楽しい日々を送りました。松の宮の自宅近くにある大歳神社でよく遊びました。
写真は、1994年(平成6年)の元旦、実家に帰ったとき、久しぶりに大歳神社を訪れたときの写真です。杉の巨木があり、この奥の雑木林では、カブトムシやクワガタがよく採れました。ドッジボールをした建物は、かつて農村舞台だったことを、近年知りました。
1966年(昭和41年)
4月、神戸市立山田中学校に入学。生徒会長も務めました。
とくに、ため池で鮒を釣って遊ぶのが大好きでした。当時の農村では、生ゴミはまだ野原に捨てていて、ゆっくりと土に還っていきました。ぼくたちは、生ゴミの下を掘り返してシマミミズを探し、釣りの餌にしました。いつの頃からか、生ゴミの中に、空き缶やチキンラーメンの空き袋が混じるようになり、農村の暮らしも少しずつ変わっていったように覚えています。
中三のとき、母親が原因不明の病気になり、神戸大学医学部附属病院に入院しました。箕谷の山田中学校から湊川に行って、母親を見舞い、東山商店街やダイエーで1円でも安い肉や野菜を買って、鈴蘭台行きのバスに乗って帰る日々が続きました。料理は弟と一緒につくりました。大変でしたが、何とかがんばり、灘高に合格することが出来ました。両親は、涙を流して喜んでくれました。
1969年(昭和44年)
4月、灘高校に入学しました。
ベトナム反戦などで世相は揺れ動き、街にはヘルメットをかぶった反戦グループが激しいデモをし、騒然としていました。友人たちと、平和とは何か、国家とは、社会主義とは……と、結構まじめに議論をたたかわせました。それでも、夏休みは、県内の民宿に行き、涼しく楽しいひとときを送りました。
ダム湖をよく泳いで渡りましたが、水面の水はふつうでも、足が届く深さの水温は、氷のように冷たく、ぞっとしたのを覚えています。