久元 喜造ブログ

原爆投下直後、電車は動いた。

150810
東日本大震災により、いくつかの自治体が壊滅的な被害を受け、もしかしたら、これまでの常識では対応できない事態が生じるのではないかという危惧にさいなまれたとき、頭を過ぎったのは、原爆投下の後、広島がいかにしてあの惨禍と向き合ったのか、ということでした。
さっそく、広島市の担当の方にお願いし、復興誌を取り寄せてお借りしました。
一刻を争う震災対応の作業の合間に、貪るように読みました。
2013年8月6日のブログ で記しましたが、広島の人々が、灰燼の中から都市の機能と自治を回復させるべく、想像を絶する困難と闘った跡をたどることができました。

広島に原爆が投下された、わずか3日後に、広島に市電が走ったことは、以前から知っていました。
このような奇跡がいかにして成し遂げられたのか ― 8月10日に放映されたNHKドラマ 『一番電車が走った』 で、その一端を初めて知ることができました。

すでに男たちは戦地に赴き、広島電鉄の路面電車を運転していたのは、初潮を迎えたか、まだ迎えていない年頃の少女たちでした。
その一人、当時16歳の雨田豊子さんは、運転中に原爆が炸裂し、自らも負傷しながら、8月9日、路面電車の運転席に立つのです。
被爆し、死期を悟る部下とともに、電気系統の復旧に当たったのは、軍需省から広島電鉄の電気課長に転身していた松浦明孝さんでした。

いま、雨田豊子さんは、孫やひ孫に囲まれ、お元気でお過ごしです。
当時の模様をユーモアを交えて語るそのお姿から、たくさんの元気と勇気を頂戴することができました。